「病」の逆照射から見た「健康」とそれを支えた生活改善
―今野大輔「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」を参考に―
本報告は、「健康」というものがどう扱われ、その対極にある「病」とどのように比較され生活に取り込まれていったのかを、その動きの中にあった生活改善の役割から見ていきたい。
「病」と「健康」は正反対のものとして理解されているが、昨今の諸科学の研究においては「病」の特異性を見出し原因究明とその治療を目的とし、「病」の物理的全容を解明することにおいて「健康」を導き出そうとしている。医学においてはそれを科学的に証明し、そこから導き出される結果を応用し、健康に役立てるということを行っている。歴史学などにおいては「病」の歴史的な位置づけがどのようにして変遷し、その特異性や医療技術の進歩との関係、社会との関係の中でとう扱われその背景に何があるのかといったものを導き出そうとした。また同時にこれに伴う差別を分析し、それを反省する動きを見せている。特に、ハンセン病における強制隔離政策の問題に関しては、国がどのようにそれを差別視させようとしたのかを克明につづるとともに、それに対する反省を明らかにしようとしている。
しかしながら、本報告ではそうした科学的立証や歴史的反省に習うものではない。かといって、科学的根拠を否定して将来的な研究に対し危惧したりするわけではない。また、ハンセン病などの強制隔離政策が正当であったということでもなく、「病」の差別を分析することが何も生まないと言っているのではない。本論で行おうとしていることは「病」の対極に位置し、なおかつ自明のごとく君臨する「健康」という思想、そしてそれを冠して推し進めた活動が、絶対的な権威をもっていかに語られてきたのか、「病」をいかに遠ざけようとしてきたのかを解明することにある。これは「病」を差別視する政策の歴史的反省というよりも、歴史上においての「健康」の優位性がいかにして人々に影響したのか、いかにして生活へ影響を与え、今の私たちの生活を位置付けたのかを立証するものである。
詳しく述べていくと、「病」であることの劣等感があることを前提として語らえ「健康」はそれ自体が自然、普通であるようなとらえ方をされている。見方を変えれば「病」であることは社会的に善しとはされず、改善されるものであり、「健康」でなければいけないのだという強迫観念がここにある。昨今「健康」という言葉の流布はますます過激になりつつある。さまざまな食料品、医薬品をはじめ、衣料、住居など、衣食住のいずれにおいても目立った言葉として使われる。人々はその言葉に安心を求め、さも当然のようにそれを享受しようとしているが、なぜそのように人々は進んでこれを取り入れようとするのだろうか。また、その「健康」の範疇から外れるものに対して、なぜこれほどまでに疑いを抱き、劣等感を持ち忌避するのだろうか。そうした「病」の逆照射からわかる「健康」の内面性を明らかにし、またそれを用いた活動がいかにして広まり、さらにそれを受けた人々がどのようにして「健康」を享受しようとしてきたのかを考えるものである。
この考え方に思い立ったのは、調査地である兵庫県宍粟市千種町における生活改善の分析を行った際のことである。この活動の要となった「千種町いずみ会」は、設立時に「家族の健康」をかかげ、活動にいそしんでいる。その後の行政政策においても「健康推進」を前面に出し、活発に議論していこうとする動きさえある。また、これらの活動が始まる以前、この地域においては児童の成長不良、乳幼児死亡率の高さ、寄生虫卵保有率の高さなどなど、さまざまな保健衛生上の問題を有し逼迫した状態であった。だが、多くの話者が「それまで何とも思わなかった」「なぜうちの子が」と口々にそれまでの生活においてこの問題に対してなんら疑問を呈していなかったということを述べている。「それまで何とも思わなかった」とすることは、これらの活動が動く前は、児童の身長体重そのほかもろもろにいたるまですべて「問題がない」として考えられていたことになる。それが昭和30年代を境に、一変してそれまでの生活を「反省」し、これからの「健康」的な生活を今まで以上に求めるようになった。では、なぜそれほどまでに「健康」を求めなければいけなかったのだろうか。なぜそれまでの何も「問題のない」生活を「改め善くし」なければならなかったのだろうか。千種町の生活改善における「健康」の重要性についてはこれまで活動の実態から見てきたことであるが、なぜそこに漫然と「健康」が掲げられているのかということについては考えたことがなかった。「健康」というものに対し、人々が抱くものとは一体どのようなことなのであろうか。それを解明することは生活改善の推進がどのような作用を受けてあったのかを見ることにもつながる。この疑問から「健康」について今一度考えなおす必要性があると思った。これは、生活改善活動を通じてわかったことであるが、改良普及員ならびに保健婦などが昭和20年代後半より日本全国の農山漁村に対して、生活改善に伴う教育的指導を行ってることからである。ここでいう教育的指導は多種多様ではあるが、一定の方向性がある。それは人々の生活を安心安全で効率の良い合理的な生活に結び付けることであり、つまるところ身体的労苦から切り離された理想的生活の実現を目指している。これに「健康」というものも含まれている。そこで、この教育的指導を通じて、保健衛生知識を伝えていく過程において「健康」というものの優位性についても直接的にはないにせよ、間接的に伝えているのではないかと考える。つまり、生活改善自体、「健康」という言葉を人々に広めさせたのではないかと推察できる。そのため、地域における生活改善の動向を探ることにより、「健康」の普及とそれに対しての人々の受容の具体性を明らかにできる。本報告では、「病」から逆照射された「健康」、そしてそれを具現化した生活改善の足跡を追うものとしたい。
ただ、「健康」というものは真正面から扱うことは非常に難しく、「生まれる」、「育つ」、「老いる」、「死ぬ」のどのライフステージにおいても、「健康」をそのまま扱うというよりは「病」などの身体への災い事を通じてしかとらえることはできない。先の、千種町の例でも「児童の成長不良」というある種の災い事の中で「健康」を導き出していることからも立証できる。では、どうしたアプローチが必要なのかという点であるが、まず「病」そのものに対する「忌避感」というものをもう少し考えていきたい。次に、なぜ「忌避」され、「病」ではないと証明するためにはどうすべきなのかということを通じ、「健康」とはいったいどのようなものであるのかということを考えていきたい。まず、「健康」とはどういうものなのかを知る必要がある。そこで、過去の研究において「病」とその差別から見た「病気観」を扱った論文を取り上げてみたい。「病気観」が形成されていく過程で、「こうしなければ」「これ以外」は「健康」という論が成り立つのである。つまり、「病気観」をのぞくことで「健康観」について考えることができうる。ここでは今野大輔の「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」をあげてみることにする。
今野大輔の「ハンセン病差別の民俗学的研究に向けて」は2008年に『日本民俗学』256号において発表された論文で、ハンセン病差別の俗信、伝承や伝説を頼りに「癩病観」をとりあげている。今野はハンセン病のこれまでの研究はその差別政策、特に強制隔離政策において人々がハンセン病を差別してきたとされていることに言及し、その政策による差別はある一方でもう一つのものとして俗信などの政策以外の面から差別に至った背景もあるのではないかとしている。ハンセン病に関する伝承は少ないながらも各地に分布し、時期外れの食物などからくる食物禁忌や、神聖な火を汚すことから始まる火の禁忌、「業病」と言われた貴人殺害の怨恨などがあげられる。いずれもこれを侵犯することによりハンセン病にかかるとされ、忌み嫌われるものとしてあげられていた。特に、「業病」に至ってはその罪が何世代にもわたって伝承されていくとされ、その後の遺伝性疾患であるとする国の強制隔離政策を助長するものであったのではないかとしている。また、今野は、こうした伝承におけるハンセン病の扱いとは別に、そのハンセン病にかかわる人における所作にも着目している。鍋かぶり葬にならう特殊葬法のありようである。この鍋かぶり葬は遺体の頭に鍋や甕などをかぶせて埋葬するもので、中世期から続く古い葬法である。この葬法についてこれまでの研究では、霊魂の安定化を図った装置として記述される傾向にあった。特に、盆期間に死んだ者の遺体は、先祖の霊が自分たちが赴く先に、これからあの世に行く存在がいることに疑問を感じ、霊魂の頭をたたくからかぶり物をしているのだという説明がなされた。確かに、呪術的な様相を呈していると考えられる。しかしながら、この特殊葬法がハンセン病においても用いられるにも関わらず、病との関係性についての考察はなされてこなかった。今野はそこで、このハンセン病における葬法に関する伝承の中にハンセン病が遺伝であり家筋に影響を与えることから、これを避ける意味で死者との断絶を決意したのがハンセン病の鍋かぶり葬の本意ではないかとした。つまり、ハンセン病患者の家筋のものは、その患者と縁を切ることによって、家筋を存続させようとし、「癩病」の筋のレッテルを忌み嫌う所作を葬法の中に取り込んでいたというのである。また、鍋をかぶり埋葬されることは、同時に忌避されるものとして人々に認識されていたと論じた。ただ、家筋の病として述べられたのは何も、ハンセン病だけではないと今野は述べている。結核も同様に家筋のものとして理解されていた現実がある。しかしながら、ハンセン病とそれとでは、その扱いに差があり、前者のほうが差別意識が強いように感じられ、その差が何なのかを述べている。それによれば、結核はそれ発症自体が急激であり一度かかれば死に至りやすく、且つ誰にでも罹患する恐れがある。その一方、ハンセン病は慢性的に体内にとどまり、発症が遅く発見が遅れるケースがあり、発症しても死にはいたらないものの体の一部が変形するなどの症状が出る。また、菌自体の感染力は低く、誰でも罹患するという恐れはない。このように、一見同じような扱いをされているものの、結核は国民病として恐れられる半面、ハンセン病は特殊な病気としての意識が強く、その希少性から先に記した「家筋」などのものとして捉えられていた傾向があった。さらに結核とハンセン病では衛生政策の扱いが異なることに対しても言及している。特に隔離政策において結核はそれほど隔離されることがなく徹底した検診のもとに行われていたのに対し、ハンセン病は強制隔離政策が実行され人々の恐怖をあおった。これまでの伝承がもっていた「癩病観」と国家の強制隔離政策とが相まって、これを忌避し差別しようとする動きがみられたのではないかと述べている。こうした論拠を出したうえで、今野は民俗学におけるハンセン病差別の研究は、さまざまな伝承から分析可能であり、これまでの政策差別一辺倒な考え方ではなく、もっと広範囲にわたった人々の中にあった「癩病観」をも見る必要性があるのではないかと締めくくっている。
今野の論はこれまでのハンセン病の政策における差別観の考え方を見直し、そうした人の内面性と政策とが相まって差別が進行した諸相を明らかにしたことは大きく、これとは別に人々の意識の根底にあった癩病観にまで踏み込んだものであり、これを解明することこそが差別の全容を理解することにつながるとし、その役割を多少なりとも民俗学が考えるべきだとしている。
しかしながら、ハンセン病の政策、「癩病観」という「病」に対する強い忌避感があることは理解できるが、なぜそこまで精神的に忌避すべきものとして私たちの中にあるのだろうかという点には答えが出ていないように感じる。今野は「癩病観」を用いて「病」の恐怖感というものが人々の中にあり、それが差別を生んだとされているが、ではどうして「病」にそれほどまでに恐怖感を植え付けられなければならなかったのかという疑問も出てくる。千種町の事例でもわかるとおり、児童の成長不良が人々に認識されなければ、それほど身長や体重に疑問を持つこともなくて済んでいたはずだ。しかし、そこに突如として疑問が生まれ、それまでの生活を反省するという事態が起こった。つまり、「病」を認識したとき、それに疑問を持ちそうならないでいようとする気持ちが出てくる。そうした認識作業が「病」を比較対象化し差別しようとしていったのではないか。そうした疑問を持ちこみ「病」を認識、忌避させたのは「病」の対極にある「健康」である。この点に関する研究はいまだ進んでおらず、民俗学のおいては分析がほとんどないのである。社会学や諸科学において「健康観」という言葉がある。これはその時その場所そのものに見出された「健康」に関する思想に基づく人々の行動理念をあらわすものであり、「病」への対抗策としての諸相をもあらわしている。つまり、「健康」と「病」は表裏一体のものであり、片方だけを論じても、もう片方の意図をくみ取らないと理解できない仕組みとなっている。今野の論は「病観」での差別の分析であって、もう一方であるその時代の「健康観」が抜け落ちているのは分析不足ではないかと考える。
では、今野のこうしたハンセン病に関する差別意識の中にあった「癩病観」にはじまる「病観」にはどのような「健康」という考え方が絡んでいるのだろうか。一つの仮説として時代時代の伝染病に対する「健康観」の積み重ねとそれを促進させた健康教育や政策が大きく影響しているのではないかと考える。また、この健康教育の普及には生活改善がしばしば絡んでいる。生活改善でたびたびおこなわれた保健衛生知識の普及、教育的指導が「病」と「健康」を導き出した。これはハンセン病だけでなく、各種感染症、慢性疾患、奇形児や障がい者などにおいてもいえることである。いずれも目に見えるものに限定される節はあるが、「病」を持つ者とそうでない「健康」な者との選別を可視化して、そしてより差別化することがこの教育的指導に盛り込まれていたとするならば、その後の生活改善において「健康」という言葉がなしえた業績は大きく、且つ人々の意識面の改革を促進させたことになる。ここで断っておくが、「健康」が悪いわけではない。ただ、その言葉の持つ権威というものがその後の活動において大きく働き、「病」を遠ざけたのである。
千種町の事例に戻りその「病」と「健康」そして生活改善のありよう考えてみたい。まず、千種町の「病」となるのは、はじめ児童の成長不良というものであった。この成長不良とは、身長体重などが県下の標準値に至っていなかったことからいわれている。その標準値を基にその後の児童の成長がより分けられる結果となった。標準値を用いられる以前、児童の成長不良について誰も「なんとも思わなかった」、ただ漠然としたその地域内の社会的価値観でのみ身体が見られていたのである。これを「健康観」の変化と捉えるならば、以前までの「健康観」と成長不良が発見された以後の「健康観」とはちょっと異質なものであると考えられないだろうか。その変化の背景には昭和30年代に制定された「優生保護法」とその思想にある「健康観」が影響している。この法律自体は「望まれない子ども」つまり障がいを持って生まれる子どもを出産前に抑制することを法文化したものである。千種町の問題は児童の成長不良であるから、一見なんら関係のないものと思われるかもしれないが、この「優生保護法」の考え方に従うならば、身体的弱者の徹底的な排除がそこに浮かびあがってこないだろうか。そうなれば、障がい者だけに限らず、生まれて育っている子どもも含めて、身体的に劣っている存在に対して忌避し、そうではない者を称賛するという思考が生まれる。この法律だけではなく、この時代の保健衛生での考え方は、ある種の制限的措置を身体に設けているように思う。身体がある一定のラインに達している者に対しては優を、それ以外のものに対しては劣を与え、その優における価値観を高める指導がされているのである。例えば、身体測定結果における県下の水準に至っていない児童に対しては「栄養をとりなさい」とか、「運動をしなさい」とかを奨める動きが見られるのもこのことからである。「健康」を求めることは当然のことであるが、そこに身体の優劣を見出していることに誰も気づいていないだろう。千種町での成長不良問題から派生した生活改善はこうしたバックボーンの上に成り立ち、そして町民の身体を管理運営していくことになる。特にそれが際立って見えるのが昭和43年に町で制定された「千種町健康教育振興審議委会条例」である。これは町を挙げて健康教育、即ち体育などを奨励し児童の身体の改善を実現し、「健康」で且つ元気のある町を内外にアピールするものであった。つまり、「病」とされた児童の成長不良などを一掃し、「健康」である身体を手に入れるための条例である。ここで、ハンセン病患者とこの児童の成長不良者という存在の比較的なものを考えてみた場合、そこには質は異なれど「病」「劣」に対するある種の忌避がうかがえるのではないだろうか。つまり「健康」でいなければ、「病」にかかれば自分は「劣」と見なされ、社会的な場から一掃されるという恐怖心を人々に植えつけたと考えられないだろうか。この植えつけの役割を果たしたのが「生活改善」であり「地域保健活動」である。これらの活動は、単に「病」を排除するにとどまらず、そうした意識変化にも大きく影響を与えたのである。
現状ではこれ以上のことはわかっていない。まだ分析するものは多いが、生活改善が地域の「病観」を変質させ、「新しい健康観」をそこに植えつけたことは推測できよう。そして、これらを助長した社会背景も常に考える必要性がある。民俗学において、生活改善は常に「善」とし、それまでの生活を「悪」とすることが多い。しかし、そのような価値観が出るのはなぜなのか、なぜ以前の生活を排除しようとするのかといった視点も考えるべきであろう。また、「病」というものについての研究的余地は、かなり幅広いが未だ研究が進んでいない「健康」に対する視野も同時に開拓すべきものではないか。単に一面でしか「病」の民俗学的意義を見出すのではなく、「病」を通じてみる「健康」の役割をいうものも考える必要がある。以上のことから、今後はその「健康」と生活改善についてもう一度分析を行い、これがどのようにしてリンクしているのかを整理検討してみたい。
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