報告題目:戦後の地域の保健教育、女子教育と「生活改善」
本研究の主題は、戦後の保健衛生面での「生活改善」の諸相を従来のように単に国策や思想としての社会史の中にとどめるのではなく、もっと具体的に地域社会での生活の中においてどうであったのかを問うものである。地域社会での具体的な動きとしての兵庫県宍粟市千種町の「生活改善」を事例として扱い、その活動の社会的意義を考えるものとする。但し、地域内だけでこれを見てしまうとかなり小規模な意義になってしまい、全体的な、国策としての「生活改善」の流れにおいてこれをどのようなものであったのかについては考えが及ばない場合がある。そこで、当時の社会的背景や政策、千種町の場合、保健衛生政策とその進め方の中にも「生活改善」を見出す必要性もある。つまり、単に地理的な地域という個々の小さなまとまりではなく、もっと広い社会的なまとまりにおける地域という視野でこれを対象化し、且つ分析を試みたいと考える。
第三期の本報告では、千種町において行われた「生活改善」の中に見られる保健教育上の要素、さらにはこの活動が地域住民側において女子教育的なものとして取り扱われていたことを踏まえ、この活動の教育的側面がどう地域生活に影響を与えたのかを考察する。これまで、第一期(4~6月)、第二期(7~9月)報告では「健康」や「病」という言葉が指すイメージと地域社会との接点を社会史的な立場から見て、それを千種町の活動に照らし合わせることでその言葉が具体的どのように扱われ、「生活改善」に結び付いてきたのかを考えようとした。結論からいえば、これらのイメージはその当時の社会状況と密接にあり、それが変化し受け手側である人びとの意識に反映される。つまり、「生活改善」に含まれる「健康」や「衛生」という言葉は、その当時の地域社会にもとからあった意識を変革させ、新しい意識を植え付けた結果「生活改善」が樹立し、確立していったということである。ただ、第一期、第二期では具体的な地域での活動というよりも、その当時の社会状況においてそれがどうであったのかということを推測したまでであり、具体的にどのような意識の植え付けがなされていったのかというところまでは分析できていなかった。本報告ではこれを補強すべく、意識がどのように植え付けられていったのかという視点をもう一度問うことする。また、これには深く教育というものがのしかかってくる。これは単に学校教育というものではなく、社会教育上のそれである。地域の保健衛生に限らず、食生活面での管理を促す教育が幾度も行われ、それが定着することにおいて、食生活が変化し栄養状態が格段に良好な状態となったということはこれまでの報告でも分かってきている。つまり、そうした教育により人びとの意識改革が行われ、栄養状況の改善へ結び付いたとされるのである。だとすると、その教育とはどのようなものであり、どう活動したのか。またそれがどのようにして人々の中に浸透し意識の変革を起こすまでに至ったのかを分析する必要があるだろう。
千種町で「生活改善」が行われたのは昭和35年から昭和50年ぐらいにわたる15年間ぐらいである。この時期の設定についは、やや不明瞭な部分が多いが、これぐらいでしか今のところ資料上や聞き取りデータの上では分かっていない。また、昭和35年以前にもなんらかの改善が行われていたことも考えられるが、保健衛生面においての改善ではこの昭和35年からを考えることが妥当であると考える。その根拠は、昭和35年に隣郡の佐用郡佐用町からひとりの保健婦が赴任してくることにある。ここではA保健婦と呼ぶ。このA保健婦は宍粟郡千種町で初めておかれた保健婦であり、地域の健康の管理体制の先駆けとなった人物でもある。つまり、この人物の登場により、その後の千種町における健康の政策及び活動はそれまでのものとは異なったものとなりえることは必然であり、この人物を具体的に取り上げることで、その当時の保健衛生の状況とそれがいかに変わろうとして言ったのかを分析できる。昭和35年のA保健婦の赴任は、千種町において大きな出来事であり、地域社会の保健衛生面においても転機であったと考える。また昭和50年を終わりとするのは、A保健婦がこの地を去ることを意味している。そこから先は、別の保健婦が赴任することになるのであるが、この昭和50年代を最後として千種町において大きな保健衛生活動ないし、「生活改善」というものはなくなってくる。つまるところ、A保健婦の任用期間は千種町にとっては怒涛の保健衛生の改善ラッシュであり、「生活改善」が頻繁に行われた時期と重なるのである。この意味で、昭和35年から昭和50年を軸に、この地域を考えていきたい。
さて、具体的に事例を見ていくこととする。千種町で「生活改善」の兆しが見えたのは、活動が開始される少し前、昭和31年のとある事件からである。この事件とは、千種北小学校における児童の成長不良の発覚である。発覚という言い方をとるのにはわけがある。当時、千種北小学校では何度か児童の成長を示すデータが取られていたにもかかわらず、この時期に急にその成長の伸び具合を気にしだすそぶりが出てくることである。地域住民からの聞き取りによれば、この小学校の昭和31年に催した修学旅行の旅行先が発端となっているようである。旅行先は明石や姫路といった都市部であり、その当時としては別段不思議な地域でもない。ただ、この旅行に付き添ったある教師が、その旅行先の都市部の児童と当地域の児童との体格差に驚き、この体格差は異常であり改善する必要があることを旅行後、当地域に戻った折に地域住民へ説明したという。それがきっかけにより、学校児童の親を中心に地域住民の中で、自分の子ども達の成長具合に疑問を呈するようになった。この児童の成長不良の原因は、当時の栄養状態にあったという。但し、その詳しいことに関する資料が判明しておらず、聞き取りでしかそれを明らかにすることはできない。聞き取りによれば、当時の児童の様子は身長が低く、痩せていたという。まるで「戦争孤児」のようであったとさえいわれている。また、当時は学校での給食は行われておらず、児童は自宅から弁当を持参することになっていたが、その弁当を用意してもらうこともできない欠食児童が多くいた。この状況を見かねた親たちはその後、これを改善しようと、当時のPTA組織、育友会を中心に学校児童に対する給食の実施を行うこととなる。その後しばらくの間これが続けられ、後に学校児童に限らず、地域の食に対して具体的な改善を急ぐ形で千種町いずみ会という組織が作られていくようになる。
千種町のこうした改善の兆しは、学校という教育現場からの地域への疑問という形から始まり具体的な諸相として改善を進めるようになっていくが、このような流れはなにも千種町に限ったことではない。昭和31年に行われた食生活改善協会の記録『昭和三十一年度 食生活改善協議会報告書』によれば、この学校の教育現場を発端として行われる改善事例は既に報告されており、珍しいことではなかったようである。つまり、保健教育の一環やその一部として地域社会における食の問題や、千種町に見られるような児童の成長不良の問題が扱われるようになってきたということである。また、昭和31年を境目に社会全体の健康観というものも変わってきつつあった時代であった。これまでの地域保健で言われてきた「結核」などの伝染病による急性疾患が衰え、それに代わって「高血圧症」「心筋梗塞」などの生活習慣からくる慢性疾患が増え始める時期なのである。つまり、生活の根本的な見直しがこの当時求められており、食生活、保健においてそれが明確な形で示されていくようになっていたのである。千種町も同様にこのような社会状況にあり、一刻も早くこれらを改善していく用意があったものと思われるが、行政が動き出したのはその後昭和35年のA保健婦の赴任を待つことになる。この間、どのような活動があったのかは聞き取りでも明らかにされておらず、紙面上でも不明になっている。
昭和35年、隣郡佐用郡佐用町からA保健婦が赴任することとなる。このA保健婦の赴任は、宍粟郡を管轄している山崎保健所からの通達があってのことで、その通達によれば当時千種町は欠食児童の問題に限らず、奇形児の問題や発育不良児の問題、母子保健環境の不整備など保健衛生上でかなり問題があると指摘されている地域であったという。そこで、隣郡で保健活動をしていたA保健婦に白羽の矢がいき、その流れで務めることになった。この時点で、千種町には保健婦がおらず、診療所が唯一の保健医療機関であった。そこに保健婦が入ってくることは、地域住民からするとあまりなじみのないものだったようである。A保健婦の話によれば、千種町は閉鎖的な集落が多く、赴任した頃家庭訪問に伺おうとすると「結核患者がいる家に回っているのだ」といううわさが流れ、「病院送りにされてしまう」として誰もあってくれようとしなかった。つまり、この時点で保健婦は伝染病患者を中心に見ているから彼らに診てもらうことはすなわち病院送りということを地域の人は思っていたらしい。その後、A保健婦は地道に家庭訪問を繰り返し信頼を得ていくことになるが、そこで用いられたのが教育ということである。それまでの診療所などの巡察では、病人に適切な施しをあたえることが目的であったのに対し、保健婦のそれは単に病人だけに限らず、その家族や家庭の状況に応じた健康管理の方法を教えることにあった。つまるところ、保健教育の先駆けである。この当時どれぐらいの保健知識がこの地域にあったのかは未だわかっていないものの、昭和31年に学校給食を実施せざるを得ない事態になっていることからしても栄養状況にかなりの関心や保健医療に対しての関心がある程度あったように思う。だがこれらの関心に対しての応答がなく、保健医療の整備がなされていなかった。例えば、妊婦は赤ん坊が生まれる直前まで山の畑を耕したり、田植えをしたりしていたといい。怪我をしたりしてもそのまま放置するか、ひどくなったときにのみ診療所を利用するという。今でこそ医療機関の重要性は一般的になっているが、この当時の医療機関の利用率はかなり低いものだったそうだ。そのため、発見が遅れかなり苦しい事態に陥ることも多く、妊婦は特に異常出産や死産などが多発していた。そこへ、A保健婦が入ってくるようになると、そうした保健衛生面に関する知識を頻繁に見聞きすることにより、人々に医療機関や保健衛生に関する正しい理解を生みこれらを受容していったと考えられよう。A保健婦の指導は、主に母子保健に関わること、つまり出産前後の母体の管理や子どもの成長などのことで、このほかこれに準ずるように生活環境の整備などを人々に教えている。こうしたA保健婦の活躍により徐々に、地域の健康に対する意識の変化が見られるようになる。一つに、このころを境としてトリアゲババの手から資格を持った助産婦へと出産の介助者が変わってくるようになる。また、難産や出産後の体調変化において、病院や診療所、A保健婦の訪問などを積極的に受けるようになる。このようにして地域住民の間、特に母子において保健医療に対し今まで以上に関心を寄せ、積極的に医療機関を利用する動きが出てくるようになった。
そのような保健衛生関係の知識に対する興味関心が向く中で、もうひとつの流れが出てくる。それが女子教育である。先にふれたように、千種町での保健医療に対する関心は子どもの成長などといった母子の身体に関わるものであり、対象者は女性を主としていた。このような、女性に対する動きは何も保健衛生面だけではない。この昭和30年以降は女性解放運動なるものが全国各地でおこなわれるようになる。これは女性の社会進出により従来の男性中心の生活から女性を解放し、地位向上を目指すものであった。このような動きは社会全体を巻き込んだ大きな流れとなり、各地に地位向上を目指す女性集団を形成させることとなった。千種町も例にもれず、昭和30年代当時から千種町西河内や室といった地域において婦人会組織の中から若妻を中心に勉強会組織が出てくる。西河内では、料理教室を開いていたという。この会ができた時期は定かではないものの、当時あまり食することのなかった油でいためる料理やあげもの料理などを婦人雑誌からレシピをとりながら、月に二から三回程度会員のいずれかの家の台所を借りて行っていた。この会は何も栄養や料理法を開発するような勉強会と最初からなっていたわけではなく、心安い仲間内で料理をしてみようということから始まったらしい。室では婦人会組織とは別に幸妻会という会を発足させた。この会はもともと文学などを学ぶためのサークルとして活動していた小さな勉強会であり、その活動内容は多岐にわたり料理教室なども行っていたという。その料理教室では、当時栽培されていなかった食材を積極的に取り入れ、且つ素材を農地で栽培しながら行った革新的な会でもあった。今のところこの二つの会の存在だけしか判明していないが、千種町各所においてこうした女性グループが目立ってくるのがこの昭和30年代後半からであった。これ以前においては婦人会がこれに似たことを行っていたらしいが、若い世代が集団を決して革新的なことを始めるといった動きは見られなかったという。このような状況の中これらの会が成長していくきっかけとなったのがA保健婦の助言であった。A保健婦は昭和35年赴任当初から、これらの会に目を向け、保健衛生面での助言を繰り返し指導するようになった。西河内の場合、料理教室のある日に、A保健婦を招待して栄養知識や台所衛生に対する知識の助言や指導を仰ぎ、それに応じて料理をはじめ、さらには台所の整備にまで着手するようになっている。当時の会員はA保健婦により今まで気づかなかった栄養のことや保健衛生のことをたくさん教えてもらったという。A保健婦はこれらの女性の集まりを通じて地域住民に保健衛生に関心を持ってもらい、地域全体の生活と健康の向上を目指していた。室においても同様に、A保健婦は会員らの集まりに農業改良普及員らとともにでかけては、作物から得られる栄養や食の管理体制における指導などを行っていた。こうした地道な指導において、徐々にA保健婦のもとにこうした女性の会が集まりだした。それが昭和43年千種町いずみ会の始まりであった。
千種町いずみ会は、「女性に与えられた天分」という心構えから「家族の幸せは自分たちの手で」、「健康で明るい社会を」とのスローガンのもと母親世代を中心に結束された。A保健婦の講習を受けた者が、いずみ会会員として各地区で婦人会と共に活躍することとなった。つまるところ、この会はA保健婦の呼びかけのもと集合した各地区の若い女性グループを中心とし、その地区を総合的に養成していく機関として千種町いずみ会が設けられたのである。これは革新的なことであったらしく、当時の保健衛生においてもこの会の影響力は大きい。その証拠に昭和44年千種町役場が出した条例「千種町健康教育振興審議会条例」において千種町いずみ会の活動補助を行政がとるといったかかわりがみられ、町を挙げての取り組みがみられるようになる。そうした、千種町いずみ会はその後も精力的に活動をし、食生活改善をはじめとする「生活改善」の実施や、A保健婦を筆頭にしての健康診断の実施など地域の生活向上ならびに保健衛生への関わりを強固なものへとしていった。
このことにより、地域の保健衛生に関する関心が一気に膨らみ、地域住民は自分たちの従来の生活模様を見直すことを積極的に行うこととなった。
このように千種町の「生活改善」は、あまたの教育を繰り返し享受することで膨らみ、人びとの内面における健康意識を定着させ、保健医療に対し積極的に受け入れようとする流れを作ったといえよう。また、こうした流れの中には社会的気運もあったことも考えられる。昭和30年代から50年代にかけて地域医療への関心が各方面から寄せられており、雑誌『家の光』などのメディアにおいて、地域医療体制の不備を指摘し、これらを改善するとともに人びとに「正しい」健康知識を提示しようとしている。このことからして、この期間における保健医療に対する意識が社会的にも受容されるようになり、健康に対する意識や行動を具体的に描写し、それをよりよい方向へと転換していこうとなった。これ以前の健康に対する知識では、「病気にならなければいい」というそういうマイナス的な発想での健康観であったのに対し、昭和30年代以降「健康を維持し向上させる」というプラスの発想へと転換しているのである。千種町の「生活改善」が果たした役割はそうした意識革命の中にあろう。そして保健教育、女子教育という双方面おけるつながりのもとで大きく前進した事例であったと考えられる。
現在のところ、こうした機運がどのようにして生じたのかを当時のメディア媒体である雑誌等々調査している。そこでわかったのは、人びとの健康に対する熱心なまでの関心の高さである。昭和33、34年の『家の光』の付録に「家庭の医療」を題した項目が大きくもうけられ、病院での治療はもちろんのこと、家庭での健康管理の方法や不測の事態における科学的な方法での処置や病院への搬送方法などが事細かく書かれている。ここまで病院などを大々的にとらえたり、別冊で医療を詳しく論じる雑誌付録は見受けられない。その面からもこの昭和30年代は、健康と医療に対し注目が集まっていたことがわかる。このような中で千種町の動きも捉える事が出来るのではないだろうか。また、「生活改善」が女性の地位向上に果たした役割は、従来の研究からも判明しているものの、女性の地位向上が具体的になぜ地域で起こりどう活動に結び付いていったのかといったものは描き切れていなかったのが実情である。ところが、今回の女子教育と保健教育の関わりをみる中においてこれらが母子保健という形をもって密接に絡み、そして活動につながっていったことが分かってきた。
今後の課題としては、これまでのデータを整理しながら、「生活改善」の地域における意義づけを行っていきたい。これは従来の生活改善運動に代わる新しい発想である。従来の研究において生活改善運動は近代化の運動として大きく取り上げられ、その思想や活動の変遷、組織体系の構築、女性の地位向上、農業における開発と生活設計というなかで論じられることが多かった。ところが、今回わかったことはそうした外郭的なことで生活改善運動を取り巻く状況はほんの一部でしかなく、もっと現場である地域においてそれがどのように作用し、人びとがどう受けていったのかということを明らかにする必要がある。このため、新たに「生活改善」というものがいかに地域において意味していたのか、いかに人びとの中にあったのかという点を中心に分析しなければならない。修士論文やその後の書籍等において同じ地域で角度を変えながら分析を行っているのはそのためである。修士論文では地域住民側、書籍においてはA保健婦側、紀要においては総合的な視点を用いて論じており、今後はそれらを生かして「生活改善」とは地域において何であったのかを意義づけするものとしたい。
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