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2012年12月29日土曜日

資料としての「保健婦手記」

 こんにちは。歳末の夕暮れ時、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。私は歳末に当たり、資料の整理や資料の扱いについて吟味して過ごしております。

 さて、その資料のことについて今回はお話しさせていただこうかと思います。

 たびたび、このブログでも取り上げております「保健婦手記」の取り扱いといいますか、分析の方向性について論じたいと思います。

 保健婦手記につきましてはこれまでも論じてきましたので、ざっくりとした説明になりますが、これは保健婦が自らの手によって読者である同僚やその他保健医療に関心のある読者に向けて発信したメッセージの高い資料になります。『生活教育』の「保健婦の手記」の場合は、その性格が強く、あげられる事例のほとんどが日々の業務における悩みや、自分の体験したことまた相談したいことについて発言する場となっています。この発言は一応選考があるので、雑誌編集側の意図がありますが、概ねそれに投稿をしようとする保健婦は、誰かに読まれること、また誰かに伝えようという意志からそれを掲載しています。業務の内容に触れることというのは、プライベートな部分もあり、なかなか難しいものではあるものの、そこは保健婦の記述によってカバーされており、保健婦の主観や視点からの公衆衛生状況が垣間見えるものであります。また、『生活教育』に限らず、様々な保健婦手記がこれまでに発刊されており、それが一つ一つ保健婦の経験知によるものであり、日記のようなものから小説に至るまで様々な形態として挙がっています。いずれの資料についても一環としてうかがえることは、単なる読み物としてのそれではないこと、読者である保健婦やそのほかの人々に向けて、自分たちの意見、自分たちの考え方を表明し、それを社会に届けるということを役割としているのが保健婦手記になります。

 保健婦手記の定義についてはまだ私の中で固まったものがないため、上記のような形でざっくばらんに定めております。では、日記と手記ではどう違うのかということを考えると、かアンリ難しいところはあるのですが、私の場合、日記というのは日々の業務や行動を記録しそしてそれを自己で管理するものとしてのそれだと思っております。それに比べて手記というのは様々なものがありますが、いずれもそれは日記を発展させそれを他者の中で広めることを意義としているのではないでしょうか。このようなことから私は、「手記」というものをもっとパブリックなものとして見ていきたいと考えております。故に、ライフヒストリーとしての視野もさながら、公的な視点としてのそれを兼ね備えたものであり、多元的な議論ができうるものであると位置づけます。

 
 
 民俗学においてこうした視野があったかどうかについてはまだこれから研究を進めていかなければならないところですが、保健婦という限られた職掌における「保健婦手記」というものについての扱いはこれが初めてではないかと思います。保健婦について民俗学で言及したものはほとんどなく、保健医療の分野で一番多いものといえばやはり助産婦や産婆といった臨床の立場の人間、特に人生の過渡期にあたる部分おける人の役割として論じられることが多く、この助産婦らにしてもその職掌というよりもどこかそれらがもっていた技術的なもの、慣習的なものが民俗学の研究対象になっています。いずれにしても、民俗学での保健医療の研究については、未だにその職掌をおさえておらず、記録にとどまった人間としての位置づけにしかなっていません。彼らがどういう役割を担い、どういう風な活動を行っていたのか、またそれが村にとってどういう風な影響力を持ち、生活の上に成り立っていたのかという視点はほとんど見られないのです。私は、民俗学における生活研究の中で保健婦をみているわけですが、生活の変化の中には様々な人物が影響を与えているものの、その中でずば抜けて影響力を持っているのが医療従事者であることをこれまでの研究から発言したいと思っています。人間の行動のそれぞれはどこかしら身体的な障害を起点にして、それから脱することを基本としていますので、そうした場合一番に身体にアプローチできるのは医療従事者ではないかと考えるわけです。で、医療従事者の中でも、生活に直結する形であるのが、保健婦というわけです。彼らの行動を見ていくと、医者や看護婦や助産婦などと違って、日常的に人々と接し、その接する中で生活の問題、身体の問題について提言し、そして生活を変えようとした人物なのです。ともすれば、これは民俗学における生活の変化を見る中で、いの一番に見る必要性がるの職掌ではないかとも思ったりします。つまり、保健婦をみることで民俗学における生活の変化の諸相を今一度とらえなおし、もっと身体的に具体的な人間模様として描きなおせるのではないかと思うのです。また、もう一つに私の目的としてはこれらの人間模様から見られる、保健婦が果たした役割を鑑み、現代の保健師たちに保健業務にあたるうえでの心構えというか、体験としての保健婦の経験を今の仕事に生かしてくれることを願い、この研究を実践的にしたいと考えています。実践的な研究にするためには、今一度これまでの保健婦の経験をうまく整理することが重要となってくるわけですので、「保健婦手記」というものの研究はその意味でも重要な役割を担ってくれると考えます。

2012年12月21日金曜日

生活研究と保健婦

 おはようございます。先日の生活改善諸活動研究会の再開でかなり興奮気味の一週間ではありましたが、とりあえず少し緊張も解け、自分なりに観察でできるようになったのでその手始めに、生活研究の大きな枠組みというか方向性と、そこで私が抱える保健婦研究がどのような役割を果たすのかという部分について触れてみたいと思います。

 先日の研究会のブログ記事でご紹介したとおり、昨今民俗学において「生活」(日常生活)について注目が集まってきています。それは、戦後からの生活変化についてこれまで民俗学はどちらかというと平面的に扱い、それがどのように変化し、どう受け入れられるものであったのかという具体像についてはあまり触れられてこなかったからです。そのような中ですので、衣食住の研究というのも、生活道具などの道具研究が主となってしまい、生活自体の動き、社会との関連性というもの、さらに人間との関連性というものについて論じることはこれまであまりなかったのです。
 私は、「生活」というものについてこう考えます。「生活」とは単に物や技術の動きだけに限らず、それを使う人間の動きであり、そのものや技術に直面した時の感情などといった人と物、さらにその技術を伝える行為の中で描かれる人間同士の関連性の中でみられるものである。つまり、物が技術が発達して生活が変化していったという考え方ではなく、それを使う人間がどうそれを関連付けて自分たちのものへとしていったのかということが「生活」なのではないかと思うのです。私の考え方からすれば、従来の民俗学での生活研究、特に生活変化に関する研究というのはそうした関連性にかけているのではないかと思うのです。
 この関連性についてなぜ私が思ったのかということは、先日の研究会での富田氏による発言があったからです。「民俗学は一カテゴリ内に依拠してしまい、ほかの生活の部分についての関連性が描けていない」。その通りであると思います。そのため、今一度自分のやりたいことについてこの疑問を当てはめてもう一度研究をくみ上げていくことが私に課せられたものだとおもっています。

 さて、ここまで、生活研究の土台となる「生活」をどうとらえるのかということについて記してきましたが、要するに「生活」を人間や物、技術、さらに人間同士の関連性の中で描いていくことの必要性を問うたのです。では、これらを具体的にどう描いていくのかという方法について、次は私の研究である保健婦研究で分析したいと思います。

 保健婦研究なるものがいまのところ民俗学には存在しないので、私のオリジナルなところがあるのですが、そのままずばり、保健婦がどう民俗に接近していったのかということを研究するものです。これだと抽象的すぎますので、具体的には、全国各地にいる保健婦、特に戦前戦中戦後という激動の時代、生活変化が顕著だった時代に職務についていた保健婦を対象に、彼らがどのように地域で活動し、どのような指導を行っていたのか、またその指導はどのようにして生活に影響を与え、地域住民にどう受け入れられていったのかということについて研究するものです。もともと、私の研究方針としては、保健婦がどのような人物であり、どのような活動をしていたのかという、保健婦を全対象にするものではありましたが、これだと、単に特殊な職業における民俗となってしまいかねませんし、そもそも保健婦が民俗学の対象であるということには、必ずしも当てはまるとは言えません。ただ、保健婦が行った活動を見ていくと、それは民俗学者のように地域の民俗、生活の細かいところを覗き込み、それを記録し、そのうえ衛生指導にのっとりながら生活の細かい指摘をしていくのです。それこそ手取り足取りといった具体的な所作を含めての指導ですので、単なる言葉だけの指導ではありません。そういった意味において、生活に直接に触れると同時に、そこの民俗に対して理解を深め、そのうえで活動していたことになるので、保健婦がいかに民俗学的に見て重要な人物であるかは自明のことだと思います。もちろん、生活改善という含みを持たせるのであれば、何も保健婦だけではなく、生活改良普及員などの指導者もこれに含まれますが、保健婦の一番の特徴は、その手腕に人間の生命ないし健康という一番重要な部分がかかっており、なおかつ彼らの活動は「医師の代わり」としてあったようで、それこそ発言力にはかなりの力を持っていましたし、その技術力については地域住民の良き相談相手になっていたのです。このことをかんがみると、保健婦が生活にどう組み込んでいったのかということをみることにより、いずれにしても生活の変化の機微がわかってくるのではないかと考えるのです。ですので、保健婦研究は生活研究に関連していくものでもあり、これこそ「生活」の関連性を描く上で重要なものではないでしょうか。

 具体的な保健婦研究を持ち出して生活研究の中に位置づけようと思うのではありますが、実は私は少し迷っている部分があります。生活研究の中にそのまま保健婦を位置付けてしまった場合、保健婦が固定化してしまわないかと思うのです。つまり、保健婦というものが生活に影響を与えたことは明確であるからそれには異論はないのですが、保健婦が生活の域を出ていないかというとそうでもありません。様々な方向への関連がうかがえます。この場合、私がさす「生活」は衣食住の従来の研究を指しているわけですが、この研究の範囲内では保健婦の力量のほんの一部のみにしか焦点がいきませんし、いずれにしても保健婦の見方がかなり狭まってしまうことになりかねません。そこで、私は、保健婦と生活研究を二つの大きな輪として考え、それが接近する部分において関連性として描こうかと思っています。また、保健婦という人物がどうほかのカテゴリーと関連していくのかという部分についても触れておきたいので、衣食住に限らず様々な場面での彼らはどう映っていたのかも含めて考察していきたいのです。要するに、保健婦を狭い範囲でとらえるのではなく、保健婦から派生する様々な関係性の中で生活をとらえてみるということです。先に述べたことと少し矛盾があるかと思いますが、私の意見としては、単に生活研究、衣食住に依拠した研究の中で保健婦を取り上げるのではなく、保健婦という視点からもっとマクロな「生活」を取り上げられないかと思うのです。私がさす方向にある「生活」というのは、衣食住に限らず、それを基本としながら関連していく諸領域も含めてのものです。多分、このことについては生活改善諸活動研究会の方向も同じであると考えます。いずれも、生活というのを狭い範囲内でみるのではなく、もっと広い視野で見ていくというもの、それが大事なんだと思います。

 ちょっと話がそれてしまいましたが、上記の二つのこと。生活研究のこれから。そして保健婦研究と生活研究というの中でどうかんがえてみるのかというものでした。私がこの記事の中で一番言いたいことは、「生活」ってのは衣食住だけじゃないし、ものだけ、技術だけではない、人々の息遣いが聞こえるようにして生活もいろいろな関係性の中で「生きている」ものであり、それを分析するに当たっては、その生きたもの関連し続けるその様相をうまく立体的に取り込まなければならないということです。従来のような一カテゴリーの中での民俗をとりあげるのではなく、もっと複雑にもっと人間味のあるものを描いていくべきではないかと思うのです。そのための一つの手段として、人々の暮らしに直接関与し、生活の指導者であり、良き相談相手として位置づけられていた保健婦を具体事例に出すとともに、彼らがどう動き、どういう風に受け入れられていったのかということと、生活の変化について述べてみたいと思うのです。

2012年12月17日月曜日

第一回生活改善諸活動研究会(第二段)

 こんばんは。今朝がた東京より帰郷しました。

 昨日東京の成城大学で行われていた「生活改善諸活動研究会」に参加させていただいていました。この会はもともと成城大学の元教授である田中宣一氏の掛け声の下開かれていた会で、戦後の生活の変化の中で特に実際に農村に入り生活指導を行ってきた生活改善諸活動という活動に焦点を当て、それがどのように生活の変化に影響と与えていたのかということを体系的、また具体的に調査研究しようという試みでした。何度か研究会を開き、そのたびに様々な発表をし、そのについては平成23年に『暮らしの革命―戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(田中宣一編 農文協 2011)という本でまとめられました。この執筆には私も担当させていただき、戦後の生活改善という動きがどのようなものであったのかということを述べてきました。その会が本年より、新しく発足することになり、岩本通弥氏のお誘いのもと昨日結成をしたわけです。

具体的にどのようなことをするかについては岩本氏はこう述べておられます。


メールの文面より

(再開の趣旨)
 今回の研究会では、(中略)事務局・岩本の考えは、これまでの生活改善諸活動研究会における日本を中心とした研究蓄積を、比較文化論的にも拡大してみると、「当たり前」すぎて捉えにくかった「生活」の自明性が少しは揺らいでくるのではないかと期待しています。基本的に前研究会も、「生活変化」の具体像を捉え、また「生活変化」の一要因として、生活改善諸運動を研究していたと理解していますが、ありふれていて、ありきたりな「生活」「暮らし」あるいは「日常」を、どう把捉するのか、把捉するのが意外と困難な、大きな課題に向けて、前研究会がその第一歩を、ようやく踏み出したばかりなのだと思います。
 「生活」は概念化するのも意外と難しい言葉である上に、その変化も含めて把捉することは至難のわざですが、日常性という自明性によって、把握するのもままならず、かつ問題視もされてこなかった「暮らしの革命」を、具体像を通して(民俗学的に、あるいは民俗学を中心として)把捉しようとした前研究会の活動は、実に意義深いものでした。このまま活動を休止・終焉させるのは、いかにも残念で、また資料的データ的に、蓄積させていくコンテンツを多分に含んでいると思います。各地の生活変化の具体像を共時的に並べてみるなどしたら、データの集積が新たな展開をもたらす芽を潜ませているのではないかとも展望しています(後略)

 
 岩本氏が述べたのは「ありきたりな」日常の「生活」「暮らし」を民俗学でどういう風に扱っていくのかということを、生活改善諸活動の研究会を通じて発展できないかということです。


 この研究会では生活改善諸活動を通じて、「生活」というものをこの活動がどのようにとらえ、そして生活の変化にどういう風にアプローチし、そしてどうなったのかということに着眼を置いています。私自身、この研究会はかなり興味深いもので、従来の民俗学での研究では、生活改善そのものをどこか近代化の一つの事例としてしか扱ってこなかったきらいもありますし、また「生活」というものについて体系的に、具体的に論じる場というものがあまりなかったように思います。このお話しを頂いた際、また「生活」について研究ができると嬉しく思った次第です。


 今回は第一回目ですので、方針の説明などどのように「生活」を分析していくのかというものも含めてのお話だったのですが、それがまた貴重な場でした。

 まず、岩本氏は今回の研究を、国際研究の中でも位置づけ、その外側からの視線に「生活」をさらすことで生活の自明性を少し揺らがせ、そこにメスを入れようということで、一回目の発表は中国の生活改善の事例発表でした。

 福岡大学の田村和彦氏の発表で「近現代中国における生活改善に関する運動―「殯葬改革」の展開を中心に―」でした。

 中国の葬儀や墓に関する生活改善の事例で、かなり興味深い内容でした。特に興味深かったのは、葬儀を改善しようとしていく際に、それを集合体の模倣と競争原理を活かしながら広めていっているところですね。つまり、まず一つの事例の葬儀を改善し、それを真似(模倣)させて、またそれを広げるために村の意識づけとして競いあわ(競走)せて普及するというものでした。結果的にはその競争原理があだとなって、葬儀は華美な方向へと移っていくのですが、人々の「生活」に触れようとした生活改善の具体的な事例と、その結果として大変重要な指摘であったと思います。といいますのも、日本との比較で申し上げれば、改善を模倣させて競争原理を生かすということは日本の場合、あまりされていないように思います。どちらかといえば、指導部がいてその指導部を中心にグループ化が村に出て、そして各戸にその指導をいきわたらせるというもので、指導が上から下まで徹底的になされている様子がわかります。ところが中国の場合は、その指導部というものが機能しているのかどうなのかが判然とせず、またメディアの影響もあってか、住民が自主的にそして模倣として生活改善が受容されて行く実態が見えてきます。日本が指導に徹底したものであれば、中国のそれは模倣です。模倣なのでどこかでずれが生じたりしていくわけですが、これが中国での生活改善の一事例なのでしょう。

 とまぁ、日本との比較をしてみるとこれまで日本で当たり前のように見えていた指導型の生活改善が、また違ったファクターで見えていることが分かってきたのです。これはいい収穫です。日本の農村部においても、実は模倣というのは重要なことを示しております。私が調査している『生活教育』(昭和35年から現存)の昭和39年前後の記事によれば、日本の農村でも一部の生活改善を果たした家を模倣して、さまざまな取り組みがなされていたと保健婦の視点から書かれたものがあります。つまり、日本でも指導型とは別に、その模倣型と呼ばれるような感じで広まっていったものも少なからずあります。ところが、日本の場合は中国と違って、それを批判する機関、監視する機関としてのそれも発達しており、単に模倣とするのではなくそれがどう生活に生きているのかを評価し、反省し、それで指導を続けていくという形をとっているのです。

 いろんな意味で、この中国の葬儀の生活改善の事例は見えてくるものがありました。


 この発表が終わった後に、岩本氏がこれからの民俗学として、「生活」の変化のあり方をどうとらえていくのかということについてのお話しがあったのですが、その中でいちばん興味深かったのは、生活を民俗学はどうとらえてきたのかということでした。これについては富田祥之亮氏がこのように述べています。要約としては以下の通りです。

 「従来の民俗学では、儀礼や祭祀といったカテゴリーの中でのみその対象を論じようと試みてきた。それは確かにそのカテゴリー内ではみえるものではあるが、ことのほかそれを生活の上においてこようとはしなかった。生活と儀礼という風に乖離したもので、生活の変化がどのように儀礼に影響があったのかということについては触れてこなかった。生活とはさまざまな関連性のなかで描けるものであり、儀礼や祭祀の内側には生活も一緒に見えてくるはずである」

 つまり、生活というのはさまざまな関連性の下で論じられるべきものであり、本来儀礼などの民俗のカテゴリー別の研究はすべて生活に関係しているし、それをみなければ民俗学にとって「生活」をみることは難しいのではないかというのです。確かにそのとおりです。民俗学はどこかその領域内カテゴリー内で物事を完結してしまっているような気がします。非日常の場ならその場での変化を記録するのみで、それが生活とはどうリンクしていたのか、生活の変化がどのようにその儀礼の変化にかかわっていたのかということについてはあまり触れていないのです。そうなれば、儀礼は生活から浮いたもの、乖離したものとなり、どこかしら本来の民俗のありようからはかけ離れてしまう可能性をもってしまう恐れがでてきます。これは結構な危惧すべきものだと思います。

 そこで、富田氏は生活をとらえるためには、その関係性をうまく描けることが必要であると述べておられました。

 岩本氏がこれをどうとらえたのかは気になるところでしたが、私としてはこの一言が新しい民俗学での「生活」のとらえ方につながるのではないかと思っています。従来の民俗学での生活はどこか衣食住などの物質文化的な要素で固められていて、またその生活の動態との関連性を論じていない部分も多々あり、実際の生活の場と民俗で論じる生活とはかなり差があり、ずれが生じていたように思います。そこで、これを今一度整理し、生活がどのように結びつき、例えば冷蔵庫が導入されたことでどのように生活が変化し、どういう作用が方々に出てきたのかということを論じてみることも必要なのではないかと思うのです。


 これは生活改善諸活動においてもそうです。生活改善諸活動が行った活動を時系列に見ていくことも必要ではありますが、それが実際の生活の場でどう受け入れられていったのかどう作用したのかという具体的な、生活の波状効果としてみていくことが重要です。私は、保健婦を中心にそうした波状効果がどのように出ていたのかを、保健婦の視点からの生活変化をみながら分析できればと考えております。


 長々となりましたが、有意義な研究会がまた一つでき、感謝感謝です。

2012年12月10日月曜日

作業中の一覧表を公開。

ちなみに『生活教育』の「保健婦手記」はどのようなものがあるのかですが、以下のようなものがあります。

『生活教育』(生活教育の会)「保健婦手記」一覧表
タイトル 巻号 内容
1 忘れ得ぬ思い出 昭和35 4月号 助産
2 小さな足跡 昭和35 3月号 寄生虫駆除 生活改善
3 稲子に無医地区診療所を建てて 昭和36 1月号 無医地区問題 医療行為
4 打つ手はあった 昭和36 1月号 結核
5 砂丘の集い 昭和36 1月号 母子保健
6 仔負い虫始末記 昭和36 1月号 家庭問題
7 救われたAさん母子 昭和36 1月号 母子保健 家庭問題
8 一一三〇gの未熟児 昭和36 1月号 母子保健
9 アパートの人達 昭和36 1月号 グループ活動
10 保健婦生活十二年を省みて 昭和36 6月号 母子保健
11 迎え火 昭和36 8月号 結核 生活保護
12 こぼれ陽 昭和36 9月号 結核 生活保護
13 生命は尊し 昭和36 10月号 結核 医療行為
14 小さな赤ちゃん 昭和36 11月号 母子保健
15 人形・予防注射 昭和37 1月号 障がい者 予防接種
16 ともる灯 昭和37 1月号 精神衛生 生活保護
17 農村の保健婦 昭和37 1月号 衛生実態
18 Fさんのこと 昭和37 1月号 結核
19 あれから三年 昭和37 1月号 結核 生活保護
20 保健婦と母親と 昭和37 1月号 被差別部落 母子保健
21 一つの集い 昭和37 1月号 グループ活動(中老婦人会)
22 患者と共に歩んで 昭和37 1月号 生活保護
23 食卓にて 昭和37 1月号 結核
24 母と娘の願い 昭和37 1月号 癌闘病
25 保健婦のよろこび 昭和37 1月号 性生活
26 保健婦十二年 昭和38 4月号 感染症 母子保健
27 葛藤 昭和38 4月号 結核 家庭問題
28 ある日の訪問 昭和38 4月号 育児問題
29 島に駐在して 昭和38 4月号 保健婦の家族 家族計画
30 勇夫ちやん 昭和38 4月号 母子保健 育児問題
31 惠子ちやん 昭和38 4月号 父子家庭 育児問題
32 母と娘と保健婦のねがい 昭和38 4月号 結核 宗教
33 四升樽で産湯をつかったお嬢さん 昭和39 4月号 母子保健 生活問題
34 おじいちゃんベビー 昭和39 4月号 母子保健
35 癌になった私 昭和39 4月号 体験記
36 死のガスと斗う 昭和39 4月号 農薬問題
37 一本の電話から 昭和39 4月号 結核 宗教
38 アフターケアー 昭和39 4月号 結核 療養施設
39 私の一年 昭和39 4月号 衛生実態
40 啓子とともに 昭和39 4月号 就学支援
41 家と病院の間 昭和39 4月号 結核
42 H君を守ろう 昭和40 4月号 結核 就学支援
43 くらくさびしい話 昭和40 4月号 家庭問題 自殺
44 アイロンと結核と保健婦と 昭和40 4月号 家庭看護問題
45 ケースとともに 昭和40 4月号 奇形児
46 信長君の死 昭和40 4月号 母子保健 看護問題
47 声の出なかった赤ちゃん 昭和40 4月号 母子保健
48 胸像 昭和40 4月号 感染症 政治
49 母と子と出稼ぎ 昭和40 4月号 嫁姑問題
50 五年間絶対安静をした患者をおこすまで 昭和40 4月号 リハビリ看護
51 合理化のしわよせの中で 昭和40 4月号 保健婦陳情

「保健婦手記」をどうみるかということ

 こんばんは。久々の更新となります。ご無沙汰します。

 さて、ここまで私のツイート並びにブログでの投稿をご覧の方はおわかりとおもいますが、私は保健婦研究に際しまして、『生活教育』という雑誌の「保健婦の手記」(「保健婦手記」)について分析を行っています。

 そこで、この度はこの「保健婦手記」というものがさす意味、またこれがどういう資料性をもっているのかについてもう一度深く検討してみたいと思います。

 なぜこのようなことをしようと思ったのかというと、これまで私は『生活教育』内で扱われていた「保健婦の手記」というものについて、保健婦の行動記録として位置付けてまいりましたが、いろいろ見ていくとただそれだけのものとは異なるものがみえてきたので、ここで今一度自己確認を込めて記しておきたいと思ったのです。
 また、私自身、この保健婦研究について、この間まではどこか「生活の変化」の中で保健婦を扱おうと思っている節がありました。ですが、保健婦というのは「生活の変化」の要因の一つと位置付けるよりも、彼ら自身がどういう役割を担い、どういう形で村と接してきたのかをみる方が先決のような感じもしました。と申しますのも、保健婦と村人との関係性は「保健婦手記」をみる限り、かなり深い関係にあります。その関係性がどのように気付かれて行ったのかを知ることは同時に「生活の変化」や生活そのものにアプローチしていくものと思います。つまり、「生活の変化」は副次的なものであり、これを中心に扱うのではなく、「保健婦が」どうであったのかを中心に考え、その中に生活を見出すこともできないかと思うわけです。なので、私は少し路線変更をし、保健婦自身を深く知ることにしたいと思います。

 さて、話がそれましたが、その保健婦が書いたもの、日常の記録を記したものとしての「保健婦の手記」が『生活教育』の中ではよく取り扱われます。『生活教育』とは月刊の保健婦をターゲットにした教育雑誌で、昭和30年頃(現存しているのが昭和35年3月号からなのでそれ以前のはまだ分かっていません)で、発足のきっかけとしては「公衆衛生の退潮期を支える最大のホープとして、今日ほど保健婦に大きなきたいをかけられたことは、かつてんなかつたと思われます。ただ現代の保健婦業務は、時代の推移を反映して単なる看護技術や予防医学から、一そう広い民衆生活の深層にむかつて拡がつて参りました。その拡大された業務上の要望に応えるべく、エーザイ社の全面的協賛の下に私ども刊行委員会はこの「生活教育」誌の刊行と頒布を決意したのであります」(『生活教育』昭和35年3月号 96頁 「「生活教育」刊行のことば」より)となっており、要するに昭和30年代より戦後の公衆衛生行政の立て直しのために活躍している保健婦に注目し、彼らの活動がどのようなことをしていたのか、その技術面だけでなく民衆生活の「深層」にどうアプローチしていったのかという、読者である昭和30年代現在の保健婦業務についている人たちの要望に応えるべく記した雑誌です。いうなれば、保健婦のための手引書、教科書的なものとして位置付けられるものです。ただ、その教科書の特性は少し他の雑誌とは異なります。同時代に出された『保健婦雑誌』は、どちらかというと技術面、保健婦業務面におけるサポートが中心であるのに対し、『生活教育』の方針は保健婦の精神面、規律面についての記事が多くみられます。技術面もさながら、保健婦としての心構えを記した本誌は、『保健婦雑誌』にはない社会教育的な取り組みがなされています。その一環として「保健婦の手記」があるわけです。
 「保健婦の手記」というのは、保健婦自らによる寄稿によってなりたつ記事です。全国各地の保健婦の体験談、経験談を保健婦自らが『生活教育』に寄稿し、それらを刊行委員ら(丸岡秀子、金子光、永野貞、石垣純二ら)の審査によって一位から佳作までの評価を受けたものです。つまり、『生活教育』による保健婦の体験談のコンクール的な要素をもった企画なのです。審査が入るので、幾分か刊行委員の意図がみえかくれはするものの、保健婦がどのような活動をし、どのようなことを考え、悩み、感じていたのかということを丁寧に扱ったものであり、保健婦の動きを知る上で貴重な資料と言えます。
 ところで、この「保健婦の手記」について従来の保健婦研究ではどういう扱いをされてきたかというと、保健婦資料館が出している定期刊行物『保健師の歴史研究』(公衆衛生看護史研究会・保健婦資料館 2005)にいくつかみられるのみで、他の研究、例えば保健婦の歴史にかかわる研究という文脈の中では、あまり扱いが見られません。従来の研究では、保健婦の歴史は、制度史、法制史そういう並びでの扱いであり、保健婦個々よりも、保健婦という職掌がどのような役割をになっていたのかを制度の面から見ていこうというものでした。これは確かに大きな歴史の流れを考える上では重要なことではありますが、しかしながら保健婦の実態ということについてはこの歴史をそのまま真に受けることはできません。といいますのも、保健婦の実態では、制度について疑問視する声があったり、制度に背いてまでも医療行為を行った経験があったりと、そのほかかなり歴史相とは異なったものがあります。それが見られるのが「保健婦の手記」なのです。また、雑誌『生活教育』に限らず、保健婦の記録を扱ったものは多々あり、それらを総称して私は「保健婦手記」として扱っていこうと思っています。この「保健婦手記」というのは、単なる保健婦の記録という特性を持ち合わせるのではなく、先に記したように保健婦の思想、考え、悩みなど主観的な部分を多分に含んだ要素をもっています。「保健婦手記」というのは、従来の保健婦の歴史研究では扱われてこなかった保健婦の生の声を聞くことができる資料なのです。
 ただし、「保健婦手記」には多くの問題点があります。まずその書き方です。記述の仕方が読ませる文章になっていること。つまり意図的に作為的に自己の経験を書いているという点です。現実的なことを言えば、それは本当にその当時あったことであるのか、どうかといった真偽のほどは保健婦のみぞ知るというもので、実証性が低いものでもあります。これは大きな問題でもありますが、一方で保健婦がどういうメッセージをおくっていたのかということを知る資料としては十分効力を発揮する者でもあります。なので、この資料をそのまま引用するだけでなく、保健婦の制度、その当時の社会的変動と合わせてみることにより立体的に浮き彫りにできるものであると考えます。
 次の問題点として、保健婦の立ち位置の問題です。これは先の意図的なものと被るかもしれませんが、「保健婦手記」が綴られた当時、保健婦がどのような身分にいてどのような立場にある人間であったのかということによっては、その記述の持つメッセージ性の強弱に差がみられるとい事です。つまり、すべての資料を一つのものとして考えたり、資料をまとめてこういうことが言えるというようなあり方にすると少し誤解を招く恐れがあります。保健婦個々の性格もありますし、その立場というものがどういう風に手記に表れているのかをちゃんと整理したうえでなければ扱いづらいという難点があります。ただ、これは手記というものがいかに保健婦の内情をとらえているのかということも同時に示しており、保健婦の発言の様相を深く知るものでもあります。なので、個々の保健婦の立ち位置を踏まえ、どういう発言が彼らに可能であったのかということから、保健婦の内情、保健婦業務の裏側を探ることが可能なのです。
 さらにこれは問題点ではないのですが、保健婦手記には読者がいて、その読者もまた保健婦であるということも考慮に含めなければなりません。特に『生活教育』などの場合、保健婦が保健婦に対して述べている記事もあり、その真意は保健婦が同意境地に立たされているのかを知るものでもあります。なので、その読者側がどう手記を読んでいたのかも考えなければならないのです。
 以上のように、「保健婦手記」というものが含む問題点、展望そういうのを加味したうえで今一度、「保健婦手記」を読んでいくと、歴史面とは違った保健婦の顔が見えてくるのではないでしょうか。


 まだまだ至らぬ点があり、ブログで表明するには難点がありますが、今のところの思っていることを「保健婦手記」をどうみるかということとしてまとめてみました。

 今後は、『生活教育』もそうなのですが、ほかにも「保健婦手記」は多方面にあり、例えばそれは雑誌の一こまであったり、小説の題材であったり、半生記であったり、などなど多様な形をもっています。それらの資料を今一度整理しながら、「保健婦手記」とは何なのか、またそれはどう読むべきなのかということについても触れていきたいと思います。


 末筆ではありますがTwtter(楓瑞樹@御京楓)もフォローのほどよろしくお願いします。こちらでも定期的に呟いていますので、研究のほどがリアルタイムにわかります。

2012年12月2日日曜日

保健婦をどう見るかということ。(その2)

 おはようございます。朝っぱらから何をしてんだと言われかねない時間帯ではありますが、昨日考えたことを整理しているまでです。ご了承ください。

 昨日、「保健婦をどう見るかということ」としてブログにアップさせていただきましが。この記事についてあと後自分で考えてみて、少し付け加えるところといいますか、自分なりに保健婦研究をするにあたっての諸注意事項としてもう少し深く見ていこうと思ったからです。以下の文は、先のブログに対しての振り返りと、今後のことについてを少しまとめたものです。

 保健婦の研究には、単に保健婦個人、保健婦という存在をまるっと扱うのではない。保健婦個人を扱うのであれば、それは個人史であったりして別段民俗学の中でこれを定義することは必要ないし、その上民俗学との関連性を言うのであれば、保健婦個人よりもその周辺のことであり、あくまで個人はその上にあるものだという考え方がある。保健婦がその労働力を向けた地域やそこに住む人々についても深く掘り下げる必要性があり、保健婦はそうした地域において規定されなければならないとさえ思う。保健婦を民俗学の中で位置付けることというのは、地域生活、地域住民との有機的な関係性をそこに見出したのであり、保健婦個人を調べるものではない。また、保健婦を特別に強調し、その存在を文脈の中で明らかにすることが主体ではない。確かに、保健婦の略歴や経験の記述は大切ではあるが、それは地域活動において、保健婦が有する経験知がどのように働いていたのかということを明らかにする手段であり、目的というわけではない。民俗学で保健婦を扱うときの目的は、どうしても地域生活の変化の中で保健婦が与えた影響であったり、保健婦がどのような働きをしていたのかということを地域社会の役割の中でみていくことにこそあると思う。
 しかし、ただ地域生活での分析を進めていくにあたって、それでは保健婦の存在意義というものがあまりに薄くなってしまわないかという疑問もある。そもそも、保健婦でなくとも別なものであってもいいと思うことすらある。ここで、保健婦をあげる以上、この保健婦にしかない特徴をまず取り上げる必要性があるのではないだろうか。その上で上記のような地域生活の中で彼女らの活動をみていくことが大切であると思う。つまり、単に地域生活の中での彼女らをみるだけでなく、保健婦自身にも気を配らなければならないということである。保健婦自身がどのような経験を経て、どのような経験知を得て、地域で活動をしているのかといった、彼女らのスキルの部分をみることは、地域での活動の根底部分、意図する部分においての動機付け、意図などを読み取ることにもつながる。なので、民俗学で保健婦を位置づけするに当たり、地域活動の中で保健婦を規定するだけでは、保健婦のことをあまりに軽んじてはいないだろうかと思ったりする。
 民俗学における、保健婦の見方を論じるに当たっては、二つの視点が以上のことから言えると思う。一つに、地域生活の中における彼女らの働きから保健婦を論じるということ。二点目は、保健婦自身がどういう経験知をもって活動に挑んだのかという保健婦自身を論じるということ。この二点は本来は別々のものではあるが、双方ともにみて初めて一本の保健婦の諸相を明らかにするものである。だから、どちらか片方の見方に偏って、考えていけば、あまりに視野の狭い論になりかねない。例えば、結核診断のことをあげるならば、この結核診断は地域生活においては保健衛生上必要なことであり、行政としても結核予防法に基づき、結核患者を隔離しなければならない。そのために保健婦がその役割を担っているのだとするのである。これをみる限り、保健婦は結核という地域の問題の中に位置し、地域生活と結核患者の中でのみ語られるような形になっている。そこはどこか業務的であり、報告的な描き方でしかないような形だ。従来の民俗学ではこうしたちょっとした報告に保健婦をあげることは多い。だが、結核予防ということは保健婦の経験知の中でこそその業務はあり、保健婦がどのような気持ちでどのような方法をとりながら結核患者と接していたのか、そういう保健婦の働きの中に地域生活を置くことも重要なことである。つまり、保健婦を民俗学で見る場合、そこに地域と保健婦双方をみる視点がひつようであるということ。地域生活も大事であるが、同じぐらい保健婦自身のことも重要であることを念頭に置きながら考える必要性がある。この地域と保健婦の関係性が交わるところにこそ、保健婦の真骨頂が見られるではないだろうか。

 ちょっと長くなりましたが、先の保健婦をどう見るかという問題について自分なりに決着をつけてみました。まぁ、これは何かを参照して出した答えではなく、私なりの知識の中でどのような方法が民俗学としてありうるかそういうのを考えた結果です。

2012年12月1日土曜日

保健婦をどうみるかということ。

 おはようございます。朝から小難しいことをやっています。といっても、これが頭のトレーニング的なもので、アイドリング的な何かだと思っていますのでご容赦ください。

 えっと、以前「保健婦と民俗学」のことを触れておりました折に、私は保健婦を職業として見るのではなく、人間として見るべきであることを主張させていただきました。今もその主張は変わらないのですが、その件について若干考察を加えてみたいと思います。

 なぜこんな重箱の隅をつつくような考察をするかというと、民俗学では保健婦という言葉自体が概念を持って定義されているものではございません。この職業性というものも全体を把握できるまでは至っていないのです。そもそも、私たち一般のイメージにしても、保健婦というのは保健所勤めの方であったり、公衆衛生の専門家だったりと職業方面で何事も決めてしまう帰来があります。別にそれはまちがったことではありませんし、見知らぬ人を判断する時彼らの仕事から彼らの人柄を探るべきであり、それをもって他人を他人として見つめるのですから。ちょっと哲学チックになりましたが、要するにですね、保健婦というものを私たちは、その職能でもって判断し、彼らの活動を規定してしまっていないかと思うのです。なぜこれを「しまっている」と申し上げているのかというと、保健婦の活動というのは、これは戦後しばらくとか戦前もそうなのですが、地域に出て地域で住民と接しながら試行錯誤しながら行っていました。また、全くの無医村地域に出向くこともあり、そこには「保健婦」っということに触れたことがない方が大勢おられるのですから、そもそも職能云々の話にもならなかったりします。そうなると、保健婦の活動をそのまま職能だけにしてしまったら、これは地域での活動の一場面をかなり狭めて考えてしまっていないのだろうかと思うわけです。例えば、母子保健活動一つをとっても、出産の介助、産婦のケア、育児相談という助産資格をもつ彼女らからすればその専門性にかなったことをしていますが、それと同時に妊娠に関する相談ごと、それ以前の交際に関すること、家庭のことなどなど単に出産という場面だけでなく、もっと包括的に出産を取り巻く生活面において彼女らが果たした役割も大きいのです。だから、彼女らを母子保健の専門家としてみるのは彼女らの一部分しか見ていないことにもならないかともうわけです。また、違った見方をするならば、生活全体を通じて出産とかの部分を切り出して、そこに保健婦をはめ込むという作業は、どことなく不揃いなパズルのピースのようであり、前後関係とかそのほかのことをあまり考慮に入れていないのではないかとも思ったりします。つまり、生活全体の連続性のなかで彼女らを再確認すべきではないかと考えるわけです。

 おっと、突っ込んだ話に突然なってしまいましたが、そういうわけで保健婦の職能に関する見方というのをどう考えていくかというのが焦点になってきます。

 保健婦の職能については専門誌である『保健婦雑誌』や『生活教育』でたびたび取り上げられていますが、ただ記事内部でも「保健婦手記」など実務をうたった場合、保健婦の活動はいわゆる公衆衛生の専門としての部分はもちろんではあるけど、それよりも雑多な村人との関係をにおわす話が多いように感じます。雑誌のほかの記事においては、保健婦はこうならなければならない、理想的な保健婦の専門性はこうだというように高らかにうたっているにもかかわらず、それが「保健婦手記」になるとその実際の部分では、村人との良好な関係性を築く意味でも、単なる臨床屋みたいなことばかりをやっているわけにはいかなくなるというのです。民生委員の仕事をしたり、役場の連絡係をしたりなどなど、その職能に当たらないことも含めて彼らの「仕事」となっているのです。「仕事」と書くと、いかにも専門性をもった感じに受けるかもしれませんけど、どちらかというと使命感のような漠然とした目標として考えてください。

 じゃあ、保健婦の活動は職能でなければなんなのかということなのですが、先にも示した通り人間関係の構築という部分、構築というよりも補強という部分で、より人間らしい一面性を含めた能力というものもあるのではないかと思います。よく保健婦を女性としてとらえる場合もあるでしょうが、この場合ちょっとそれは別の議論になるので置いておきます。女性である前に、一個人として、一人間として彼女らは住民と接していることが言えます。人の日常に入るということは、単なる臨床や検診の専門としていては、どこまでも入って行けず、深く関係を築き、彼らをサポート出来やしない。その中で、保健婦がとったのは、医師や看護婦や助産婦にはない、日常的な付き合いとして活動であったのではないかと思うのです。言葉はどうかわかりませんが、なんでも屋といえばいいのでしょうかね。そういう感じです。村の人々にとっては、医師も看護婦も助産婦も保健婦も区別はつかないのでしょうが、しかしながら保健婦は民生委員などとのつながりもあったりして、その立場的にたんなる医療従事者としのそれではないのです。そういったことを念頭に置いて、保健婦の実際をみていくべきではないかと思うわけです。

 多分、これまでの民俗学でもし仮に「保健婦」を扱うものがあったとするならば、それはその職業として彼女らが「いた」ことを証明することはできても、彼女らが村人と接しながら「いる」ことを観察してはいなかったのではないでしょうか。保健婦をその専門職としてのみ扱い、村人との関係性からは論じない。そういった風潮があるように思います。これは別段保健婦を特別視しているわけではないのですが、医師や看護婦、助産婦についてもそうです。彼らの日常的な取り組みについてはどうであったのかという部分に関する考察というか視線というものは、私見の限り研究がないのです。研究がないというのはどうしてなのか。それは一つに、保健婦などを村から切り離して考えているからではないでしょうか。「外部者」として扱うみたいに。村の一員ではなく、村の外から来た人としての視点で見られ、影響は与えてもそれは一時的なものであり、村の連続した生活の中ではさほど重要なことでもないと考えられてきたのではないでしょうか。しかしながら、それは誤解で、保健婦も含め医療従事者はどこまでも「外部者」ではなく、どこからか「内部者」として村のうちにあることを十分考察しなければならないと思うのです。確かに、保健婦がいなかった地域に、ぽんっと保健婦が現れた場合、最初は「外部者」としてそれをみる場合はあるかもしれませんが、保健婦の活動は日常の些細なことも含めて生活にダイレクトにかかわっていることもあり、その接触期間というのは医師や看護婦の比ではなく、それこそ連続性の中で位置付けられるものであると思います。「外部者」という線引きで語られるほど、保健婦は単純ではないということを申し上げたいですね。

 以上、保健婦の見方について少しばかり論じてみました。まだこれでも十分議論できたとは思えませんけどね。最後に、私の意見はこうです。保健婦の見方というのは単に一面性でとられてはダメだということです。