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2017年5月14日日曜日

戦後南予における「蚊とハエのいない生活」の展開 ―喜多郡旧五十崎町から宇和 島市石応へ―その4

第3章 宇和島市石応の公民館と地区衛生

さて、五十崎の活動と同時代に同様の活動をしていた地域があります。それが宇和島市石応と呼ばれる半農半漁の地域です。

『地区衛生のあゆみ』と、記録スライド映画『どぶとりくんだ公民館』によれば、活動の契機は昭和28年、石応公民館主事に任命された此下七雄の思想と活動にあります。彼は、公民館活動を地域の生活課題の上に位置付け、住民の本音を聴く機会を設け、それが地区集会と呼ばれるようになりました。
昭和30年、地区集会の中から「溝が臭くてたまらない」などという生活課題が出てくると、これを石応全体の問題としてとらえ各方面の指導機関の協力を得て、公民館の年次計画として地区衛生の改善を試みようとしました。しかし、地区の男たちの中からは「漁師がハエを気にして生活できるか」という意見が出ました。そういう反発がある中で婦人会、青年団は下水溝整備の資金を自治会に要請し続けます。そして翌年、石応自治会は地区の排水溝設備に対して予算をつけることになりました。その具体的な方法を探るため、自治会幹部は、五十崎へ視察に出向いています。五十崎の視察で下水溝改善の必要性を理解した自治会は、同年11月から工事を行いました。

下水溝改善は下水溝をコンクリート化する前、昭和30年に下水溝の掃除を実施することから始められていました。ところが、当時の下水溝は底が凸凹しておりどぶやごみをさらったとしても水たまりがすぐにできることを繰り返していました。そこで、下水溝のコンクリート化が提唱されたのです。7つの地区集会のうちに1つの地区が実践しその後全地区に波及しました。

この活動について宇和島保健所の稲葉峯雄が、役所が指定したりして行う衛生のモデル地区や活動ではなく、住民の主体的な生活課題への実践として最もよいと評価しています。特に公民館が育てた地区集会が真の母体になったことは、最大の教訓であったとも述べている点は重要です。また、『どぶととりくんだ公民館』では、自治会長の話として今までしに頼りきりであったことは反省に値し、自分たちで行うことの重要性をこの活動で学んだと述べています。

下水溝改善のその後について、掃除やどぶさらいは毎回続けられるようになったのですが、実はそれ以外の部分にもこの改善が契機となったものがあります。それは生活合理化運動です。下水溝改善は、生産の結びついた意識改革でもあり、また生活の協同化を進めるうえで重要な意味を持っていました。

「蚊とハエのいない生活」はほとんどが防疫上の課題から実践に行きますが、石応は住民の生活課題に対する炙り出しという集団討議が先にあり、そこで「蚊とハエのいない生活」が明確化された点で特筆に値します。此下氏が目指したのは石応の各地区の住民の意見の応酬と、それにどう向き合うかを住民自身の姿勢を問うという意識改革にありました。ですから、防疫上のそれとしての意識よりも、住民をいかに生活課題を考える人間にさせていくのかが問われているのです。

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