10月の調査も終了し、実りのある調査ができたはずでした…しかしながら、私の勉強不足と経験不足により、聞き取り調査は困難を極め、かなり話者サイドに引っ張られる形で終了しました。それがよかったのかどうかは、まだまとめていないのでわかりかねますがね。
それより、今回の調査でのメインは、A保健婦の実態について調べることだったのですが、いろいろと彼女の周辺を調べていると、県や町行政、保健所、リーダー養成講座による各地区のリーダーたちと登場人物が増幅していき、結構まとめるのに苦労しています。しかし、こうして調べてみれば見るほど、千種町の地域保健運動(活動)が抱えていた問題の大きさに驚きを隠しえません。というか、なぜこの活動が奨励されなければならなかったのかというところで謎が多い活動でもあります。つまり、本来なら「地域の健康」を目指すための地域活動であったものが、途中から地域医療費の削減を目的としたものへと切り替わり、純粋に地域保健を考える活動というような形になっていないのです。活動には一本の筋道があるようには見えるのですが、かなり迷走しながら事業として確立していった過程が浮き彫りにされました。
論文ではA保健婦のことがメインとなりますが、彼女のライフヒストリーの描き方にも少し考えるとことがあります。方法論としてのライフヒストリーといいますか、私がやりたいことは単に一人の女性にピントを合わせるだけでなく、その周縁に隠れた地域保健運動の実態とその歴史的過程を明らかにすることです。ですので、通常のライフヒストリー研究からは逸脱したモノの考え方になってしまうのでしょうが、何とかなるでしょう。
2009年10月19日月曜日
2009年9月24日木曜日
私なりの聞きたいリストの表示の仕方
聞き取り調査では多くのことを聞き取り、それを整理する作業があります。ですが、聞き手と話者との間では意味の取り違えや聞いている内容から外れた意見も数々あります。
そこで私は質問表を作成し、意図的に質問の答えを引き出す感じで作成しています。これにはメリットデメリット両方がありますが、ここでは問わないことにしておきます。
私の質問表は「聞きたいことリスト」と名付けています。このリスト化にはまず論文を書き、不足している情報の個所を赤色で示すというやり方です。
例えば⇓…(これは実際に論文を構成していく作業中に思いついたまま赤を入れたのみですが)
第二節 A保健婦の足跡と公衆衛生への姿勢
(一) A氏の千種町保健婦としての道のり【詳しく】
A氏は、昭和三年、兵庫県佐用郡平福村(現佐用町延吉)に生まれ。【両親・兄弟はどのようなひとで、どのような生活環境でA保健婦は育ったのか】第二次世界大戦時、姉が国立病院看護婦をしていたため、「お国のために」と思って衛生兵の替わりに募集されていた陸軍病院に入隊した【なぜ姉の足跡を辿ろうとしたのか、看護の道にきょうみがあったのか】。しかし、教育中に終戦を迎えた。その後、国立病院看護婦養成所で卒業し、一九歳の折に看護婦の免許を取得した【看護婦になった後は、どこに勤めていたのか。どのような仕事についていたのか。その当時の自己の衛生観についてはどうであったのか。】。その後、看護婦だけで終わりたくない、努力して助産婦の資格も得たいと考え【なぜ助産婦の資格が必要となったのか】、神戸市立産婆学校に入学し、兵庫県の検定試験を受け二一歳で助産婦資格を得た。加えて、保健婦資格も取りたいと思い【なぜ、保健婦の資格が必要となったのか】、姫路市保健所にて公衆衛生を学びながら訓練に励み、兵庫県の検定試験を受け二二歳の若さで保健婦の資格を得た。その後しばらくの間看護婦【最初に勤めていた病院とは違う病院での勤務か。助産婦資格、保健婦資格を有している身として、そこでの看護婦の仕事はどのように感じていたのか。】として活躍するものの、昭和二六年に二三歳で結婚し仕事を一時辞めた。
その後、昭和三二年、二九歳から、兵庫県佐用郡石井村 (現佐用町)の診療所にて看護婦として再び復帰した【なぜ復帰したのか】。A氏は石井村診療所の出張診療所のある海内で診療所に泊まり込みで駐在し、地域住民の健康相談や往診などの勤務にあたった【海内での診療活動において何を学んだのか】【地域とのつながりはどうだったのか】。
昭和三五年、三二歳の時に佐用郡石井村に隣接する宍粟郡千種町で衛生環境の悪化が懸念され、町に新しく保健婦を置くことが決められたことを受けて山崎保健所の婦長【山崎保健所とのつながりはいつからあったのか、どういう仕事ぶりを認めていたのか】の推薦により、A氏がその保健婦になることが決まった【なぜその決心をしたのか。どういう思いでこの仕事を引き受けたのか】。A保健婦は始め千種町内の衛生環境を調査して歩き、地域住民の健康状態などをカードに記録しながら活動を進めていった【調査だけだったのか、それとも健康指導も行っていたのか】【行っていたとしてどのような方法で行っていたのか】。そうした中で昭和四三年千種町いずみ会や健康推進委員の設置により、活動をより強力なものへと展開させていった【地域のこのような団体との関係はどのように作っていったのか】。特に保健衛生の普及に尽力し、婦人会の総会があれば、足を運んでそこで講演をするなど積極的な活動を行った【具体的にどのような話をしたり、活動したりしたのか】。もちろん、これは彼女だけの活動ではなく千種町いずみ会や各地区の婦人会に所属するいずみ会会員、健康推進委員らも山崎保健所、生活改良普及員らの指導を受け活動に協力をしていた【どのように連携し地域活動を活発化していったのか】。
以上のようにやっていくと、調査当日何を聞くべきかがはっきりしてきます。また聞く順番も少しですがわかるようになります。このように私は、論文構成から「聞きたいことリスト」を取り出すことを考えています。
そこで私は質問表を作成し、意図的に質問の答えを引き出す感じで作成しています。これにはメリットデメリット両方がありますが、ここでは問わないことにしておきます。
私の質問表は「聞きたいことリスト」と名付けています。このリスト化にはまず論文を書き、不足している情報の個所を赤色で示すというやり方です。
例えば⇓…(これは実際に論文を構成していく作業中に思いついたまま赤を入れたのみですが)
第二節 A保健婦の足跡と公衆衛生への姿勢
(一) A氏の千種町保健婦としての道のり【詳しく】
A氏は、昭和三年、兵庫県佐用郡平福村(現佐用町延吉)に生まれ。【両親・兄弟はどのようなひとで、どのような生活環境でA保健婦は育ったのか】第二次世界大戦時、姉が国立病院看護婦をしていたため、「お国のために」と思って衛生兵の替わりに募集されていた陸軍病院に入隊した【なぜ姉の足跡を辿ろうとしたのか、看護の道にきょうみがあったのか】。しかし、教育中に終戦を迎えた。その後、国立病院看護婦養成所で卒業し、一九歳の折に看護婦の免許を取得した【看護婦になった後は、どこに勤めていたのか。どのような仕事についていたのか。その当時の自己の衛生観についてはどうであったのか。】。その後、看護婦だけで終わりたくない、努力して助産婦の資格も得たいと考え【なぜ助産婦の資格が必要となったのか】、神戸市立産婆学校に入学し、兵庫県の検定試験を受け二一歳で助産婦資格を得た。加えて、保健婦資格も取りたいと思い【なぜ、保健婦の資格が必要となったのか】、姫路市保健所にて公衆衛生を学びながら訓練に励み、兵庫県の検定試験を受け二二歳の若さで保健婦の資格を得た。その後しばらくの間看護婦【最初に勤めていた病院とは違う病院での勤務か。助産婦資格、保健婦資格を有している身として、そこでの看護婦の仕事はどのように感じていたのか。】として活躍するものの、昭和二六年に二三歳で結婚し仕事を一時辞めた。
その後、昭和三二年、二九歳から、兵庫県佐用郡石井村 (現佐用町)の診療所にて看護婦として再び復帰した【なぜ復帰したのか】。A氏は石井村診療所の出張診療所のある海内で診療所に泊まり込みで駐在し、地域住民の健康相談や往診などの勤務にあたった【海内での診療活動において何を学んだのか】【地域とのつながりはどうだったのか】。
昭和三五年、三二歳の時に佐用郡石井村に隣接する宍粟郡千種町で衛生環境の悪化が懸念され、町に新しく保健婦を置くことが決められたことを受けて山崎保健所の婦長【山崎保健所とのつながりはいつからあったのか、どういう仕事ぶりを認めていたのか】の推薦により、A氏がその保健婦になることが決まった【なぜその決心をしたのか。どういう思いでこの仕事を引き受けたのか】。A保健婦は始め千種町内の衛生環境を調査して歩き、地域住民の健康状態などをカードに記録しながら活動を進めていった【調査だけだったのか、それとも健康指導も行っていたのか】【行っていたとしてどのような方法で行っていたのか】。そうした中で昭和四三年千種町いずみ会や健康推進委員の設置により、活動をより強力なものへと展開させていった【地域のこのような団体との関係はどのように作っていったのか】。特に保健衛生の普及に尽力し、婦人会の総会があれば、足を運んでそこで講演をするなど積極的な活動を行った【具体的にどのような話をしたり、活動したりしたのか】。もちろん、これは彼女だけの活動ではなく千種町いずみ会や各地区の婦人会に所属するいずみ会会員、健康推進委員らも山崎保健所、生活改良普及員らの指導を受け活動に協力をしていた【どのように連携し地域活動を活発化していったのか】。
以上のようにやっていくと、調査当日何を聞くべきかがはっきりしてきます。また聞く順番も少しですがわかるようになります。このように私は、論文構成から「聞きたいことリスト」を取り出すことを考えています。
2009年9月13日日曜日
論文提出に向けて
9月いっぱい締め切りの原稿を現在書いているのですが、何とか間に合いそうです。この原稿は東京の成城大学との共同研究「生活改善諸活動研究プロジェクト」の論集に載る原稿です。
ネタは、以前にも申し上げましたが、千種町いずみ会の活動のことで、活動推移と住民への浸透を論じてみました。
現在、その原稿の手直しを何度か行っているのですが、やはり未熟なのか、結構あらがあったりして何度も修正をいれては確認の繰り返しでした。そこでプロに見てもらおうと、大学の教授に頼んで、論文を見ていただきました。すると「結構読みやすいし、いいんじゃないかな」とのお言葉をいただき大変うれしかったです。細かい部分についての指摘もあり、それについては帰宅後すぐに訂正し、なんとか形を整え始めています。
こうした執筆活動の一方で来月の調査の件も考えなくてはならず、休んでも居られません。連休中には話者全員分(16名)の質問項目を整理し、的確に質問できるようにしておきたいと考えています。今回の調査は一人での調査で、なんだかふあんはありますが頑張ってみたいと思っています。
ネタは、以前にも申し上げましたが、千種町いずみ会の活動のことで、活動推移と住民への浸透を論じてみました。
現在、その原稿の手直しを何度か行っているのですが、やはり未熟なのか、結構あらがあったりして何度も修正をいれては確認の繰り返しでした。そこでプロに見てもらおうと、大学の教授に頼んで、論文を見ていただきました。すると「結構読みやすいし、いいんじゃないかな」とのお言葉をいただき大変うれしかったです。細かい部分についての指摘もあり、それについては帰宅後すぐに訂正し、なんとか形を整え始めています。
こうした執筆活動の一方で来月の調査の件も考えなくてはならず、休んでも居られません。連休中には話者全員分(16名)の質問項目を整理し、的確に質問できるようにしておきたいと考えています。今回の調査は一人での調査で、なんだかふあんはありますが頑張ってみたいと思っています。
2009年9月7日月曜日
「健康不安とその対応に当たった活動」
本研究を始めてひとつ気づいたことがあります。「健康」を名乗る運動には何かしらの「健康不安」が存在し、それを改めようと「生活改善」が展開する。当たり前のことですが、そもそも「健康不安」という言葉自体を私はあまり知らなかったので、ここで改めて知ったということです。
千種町いずみ会、A保健婦、健康推進委員(母子保健委員)、保健所、行政などが取り組んだ健康増進運動というものは、すべて「健康不安」を発端に活動しているものです。保健所や行政については、簡単には言い切れない部分もあるでしょうが、衛生行政や地域保健活動の観点から考えれば、これらの活動も「健康不安」からくるものだと考えることができます。
昭和30年代から50年代にかけての千種町域で行われた「健康」に関する活動は、聞き取り調査の上、「そういう時期があったなぁ」っといわれる人も多くいて「健康」が身近にあった時期だったことが証明されました。ではそれまでの「健康」はどう扱われていたのか、以前にもお話ししたかもしれませんが、千種町域でこれほどまでに「健康」に対し熱を帯びた活動が展開されたのは昭和30年代からであって、それまでの生活の中で「健康」というものはそれほど地位が高いものではありませんでした。公衆衛生の観点からいっても、正直千種町域の昭和30年代の生活は極めて危険な衛生環境にあったことは言えます。「極めて」と申しますのも、この地域一帯は雪深い山麓にへばりつくように集落が点在する地域です。そのため、医療設備が整っていたとしてもそれを提供できるだけの「足」がないのです。またA保健婦の証言から当時の医療設備はそれほど整っておらず、かなりの人が衛生面において疾患を持っていたといえる状況だったということがわかりました。地理的環境、医療環境、衛生環境においてこれほど孤立した集落はないと思うぐらいの地域でした。そのため、「極めて」危険な生活環境のところをぎりぎりのラインでやり遂げていたといっても過言ではありません。
そのような衛生環境の中、昭和30年代に入り「健康」に関心が徐々に持たれることになると、それまでの危機的環境からの脱却するように人々の中に「健康」を身近に感じるようになったのです。この背景には、A保健婦、千種町いずみ会、健康推進委員、保健所、行政の健康増進運動ならびに昭和30年代以降の日本国内における「健康」推進の動きがあったと考えられます。前者については御承知の通りの活動ですが、後者についてはあまりこのブログでは触れてきませんでした。
昭和30年代からの『厚生白書』には数々の衛生環境および医療環境データが分析され、それにどのように対応していくかが詳しく載せられています。厚生省においてこうした動きをしだしたのはWHOの「健康」の定義が昭和22年にあったためだと考えられます。戦後の混乱期に、保健衛生事業を始めるにあたり、健康とは何かを問う中で「健康とは肉体的精神的社会的に健全であること」という意味が付加されることにより、それまで一人ひとりが健康に気を配っていればよかったもののの社会全体がこれをサポートするべきものとなったのです。これにより国は都市、地方に限らず全国民に対して「健康」を義務化しようとする動きをしていきます。それが国民健康保険の存在です。今でこそ当たり前のように国民の義務化になっていますが、昭和30年代以前までの国家においてはそれは被保険者に対する保健サービスとしてのものでしかありませんでした。そうなれば保険料を納められない住民はどうなるのか、それはその当時あまり関心がもたれていなかったと考えられます。もし考えられていたとすれば、無医村地域や国民健康保険診療所の各地域でのばらつきはなかったと考えられます。まさに医療格差社会ともいえる現象です。それが義務化によって各地域にへき地診療所ならびに国民健康保険診療所、各種診療所が開設されると全国民に対し保健サービスを提供できると考えたのでしょう。
話がそれてしまいましたが、千種町域の「健康」に関する動きの背景には様々な動きが複雑多岐に絡まっていたことが考えられます。この度、この研究をするにあたり、そこまで踏み込むことができるかどうかは分かりません。多分、千種町域の健康増進運動の展開を知るところまでが現状でしょう。しかしながら、それらの動きに合わせて社会的な動きもあったことも考えていかなくていはいけません。どちらにしろ、課題は山積みです。
千種町いずみ会、A保健婦、健康推進委員(母子保健委員)、保健所、行政などが取り組んだ健康増進運動というものは、すべて「健康不安」を発端に活動しているものです。保健所や行政については、簡単には言い切れない部分もあるでしょうが、衛生行政や地域保健活動の観点から考えれば、これらの活動も「健康不安」からくるものだと考えることができます。
昭和30年代から50年代にかけての千種町域で行われた「健康」に関する活動は、聞き取り調査の上、「そういう時期があったなぁ」っといわれる人も多くいて「健康」が身近にあった時期だったことが証明されました。ではそれまでの「健康」はどう扱われていたのか、以前にもお話ししたかもしれませんが、千種町域でこれほどまでに「健康」に対し熱を帯びた活動が展開されたのは昭和30年代からであって、それまでの生活の中で「健康」というものはそれほど地位が高いものではありませんでした。公衆衛生の観点からいっても、正直千種町域の昭和30年代の生活は極めて危険な衛生環境にあったことは言えます。「極めて」と申しますのも、この地域一帯は雪深い山麓にへばりつくように集落が点在する地域です。そのため、医療設備が整っていたとしてもそれを提供できるだけの「足」がないのです。またA保健婦の証言から当時の医療設備はそれほど整っておらず、かなりの人が衛生面において疾患を持っていたといえる状況だったということがわかりました。地理的環境、医療環境、衛生環境においてこれほど孤立した集落はないと思うぐらいの地域でした。そのため、「極めて」危険な生活環境のところをぎりぎりのラインでやり遂げていたといっても過言ではありません。
そのような衛生環境の中、昭和30年代に入り「健康」に関心が徐々に持たれることになると、それまでの危機的環境からの脱却するように人々の中に「健康」を身近に感じるようになったのです。この背景には、A保健婦、千種町いずみ会、健康推進委員、保健所、行政の健康増進運動ならびに昭和30年代以降の日本国内における「健康」推進の動きがあったと考えられます。前者については御承知の通りの活動ですが、後者についてはあまりこのブログでは触れてきませんでした。
昭和30年代からの『厚生白書』には数々の衛生環境および医療環境データが分析され、それにどのように対応していくかが詳しく載せられています。厚生省においてこうした動きをしだしたのはWHOの「健康」の定義が昭和22年にあったためだと考えられます。戦後の混乱期に、保健衛生事業を始めるにあたり、健康とは何かを問う中で「健康とは肉体的精神的社会的に健全であること」という意味が付加されることにより、それまで一人ひとりが健康に気を配っていればよかったもののの社会全体がこれをサポートするべきものとなったのです。これにより国は都市、地方に限らず全国民に対して「健康」を義務化しようとする動きをしていきます。それが国民健康保険の存在です。今でこそ当たり前のように国民の義務化になっていますが、昭和30年代以前までの国家においてはそれは被保険者に対する保健サービスとしてのものでしかありませんでした。そうなれば保険料を納められない住民はどうなるのか、それはその当時あまり関心がもたれていなかったと考えられます。もし考えられていたとすれば、無医村地域や国民健康保険診療所の各地域でのばらつきはなかったと考えられます。まさに医療格差社会ともいえる現象です。それが義務化によって各地域にへき地診療所ならびに国民健康保険診療所、各種診療所が開設されると全国民に対し保健サービスを提供できると考えたのでしょう。
話がそれてしまいましたが、千種町域の「健康」に関する動きの背景には様々な動きが複雑多岐に絡まっていたことが考えられます。この度、この研究をするにあたり、そこまで踏み込むことができるかどうかは分かりません。多分、千種町域の健康増進運動の展開を知るところまでが現状でしょう。しかしながら、それらの動きに合わせて社会的な動きもあったことも考えていかなくていはいけません。どちらにしろ、課題は山積みです。
2009年9月3日木曜日
千種町いずみ会の地区活動
「地域生活の変遷過程において外的機関の介在の実態とその受容」を考えるというテーマで現在執筆中ではありますが、ひとつ調査の過程において注目すべきことがわかってきました。
①健康推進委員という存在?
昭和50年ごろより各地区におかれた健康増進運動の末端を担当する人物。昭和50年以前は「母子保健委員」という名前だった。
②千種町いずみ会の前身?
昭和43年発足の千種町いずみ会ですが、千種町黒土ではその前身として「若妻会」という会が存在していたことが分かった。
発見としては以上の二つなのですが、従来の調査では聞き取れなかった内容が入っています。特に重要なのは「各地区」により千種町いずみ会の成り立ちが異なる点です。
いずみ会の地区活動と言ってしまえば聞こえはいいのですが、千種町域は広く平野の部分もあれば山間部もあり豊富な地理的環境が整った場所でもあります。つまり地理的環境が異なることはその生活体系にも影響を及ぼしており、各地区によって社会活動も別々なものがあるということです。
さあ、この問題をどう扱うかはこれからの課題でもありますが、、何とかまとめてみたいものです。
①健康推進委員という存在?
昭和50年ごろより各地区におかれた健康増進運動の末端を担当する人物。昭和50年以前は「母子保健委員」という名前だった。
②千種町いずみ会の前身?
昭和43年発足の千種町いずみ会ですが、千種町黒土ではその前身として「若妻会」という会が存在していたことが分かった。
発見としては以上の二つなのですが、従来の調査では聞き取れなかった内容が入っています。特に重要なのは「各地区」により千種町いずみ会の成り立ちが異なる点です。
いずみ会の地区活動と言ってしまえば聞こえはいいのですが、千種町域は広く平野の部分もあれば山間部もあり豊富な地理的環境が整った場所でもあります。つまり地理的環境が異なることはその生活体系にも影響を及ぼしており、各地区によって社会活動も別々なものがあるということです。
さあ、この問題をどう扱うかはこれからの課題でもありますが、、何とかまとめてみたいものです。
2009年8月28日金曜日
10月の調査準備と研究の修正
おはようございます。朝早くからブログ御苦労さん?いつものことです。早起きが趣味みたいになっていますので(笑)
さて、この度は現在進行中の新論文構想とそれに関する調査日程についてお話したいと思います。
先日、以前調査にご協力をいただいた方から紹介された人を伝って、「千種町いずみ会」「行政」「A保健婦」「健康推進委員」だった方々に調査協力要請と御挨拶をかねて連絡をしていました。皆さん、最初は訝しがっていましたが、私が研究の目的とどういうことを調べているのかを話すと、いきなり「そんなこともあったなぁ」「なつかしいなぁ」と仰っていただき、調査の協力を得ることができました。
次にしないといけないのが電話ではなく、手紙での調査協力要請をすることです。これをすることで、電話では説明しづらかった内容にまで踏み込み、具体的に何を目的にしているのかを表明することができます。私の場合、調査のメリット、デメリットを加えて書いていますが、まぁこれは官公庁向けに書く場合のみです。普段は研究趣旨、調査項目、協力要請、調査日程などといった順で並べていきます。
これで終わりと思ったら調査予定日が変更になった時の対処ができづらいため、再度電話して厳密な日程調整を行い、その後案内状として現地に手紙を送ります。そうした手間をかけて調査に入るのですが、私はこの方法が当然のことと思っています。もし、ここがこうしたほうがいいと仰る点があればまた指摘してください。
こうして調査準備が整ってくると、次に大変なのが新論文の構成と書きだし部分の調整です。まだ調査が一回目ということもあってか、あまり書けませんが、「書けるところから書く」という心情のもと、部分的なパズルとして文章を書いていっています。なお、後で修正が効くように配慮しながらですがね。
今回の論文は今まで話してきたように、A保健婦という一人の人のライフヒストリーを描き出すものです。A保健婦が昭和30年代から50年代にかけて行政ならびに地域住民団体千種町いずみ会や健康推進委員らとどのように関係をもち活動を行ってきたのか、A保健婦自身の活動が地域の活動にどう結びついていったのかを詳しく追ってみることが主目的になっています。ですので、少し今までとは勝手が違う論文となりますので、慎重にならざるを得ないのですが、筆が止まってしまっていてはどうにもなりませんので、早速書き始めています。⇓
ある保健婦の足跡から見る地域の健康増進運動の展開
―行政、地域住民参画型事業の活動実態について―
はじめに
本研究は、昭和四〇年代以降、兵庫県宍粟市千種町の地域生活の変遷過程において影響を及ぼしたとされる、婦人会団体千種町いずみ会と行政が行った健康増進運動の実態と地域住民によるその活動の受容を新たにA保健婦の視点から見直すものである。
以前、千種町いずみ会、行政が地域の生活の向上と健康増進運動について地域住民の生活に彼らはどのように入り込み、そしてどう「生活改善」を行い、いかにして地域の要望に従った活動がなされていたかを論じた。その際、千種町いずみ会を中心に、A保健婦や行政の協力のもと啓発運動や栄養改善、健康診断などを通じて地域住民の生活範囲内で活動しながら、「健康」に対する認識を植えつけていき、地域住民の「健康不安」に応えるべく様々な「生活改善」を行い、結果的に生活にそれが浸透し、受容されたと述べた。
しかしながらこれらは地域団体である千種町いずみ会の視点からの動きであって、そこに関わり、彼らを支持し導いていったとされる、とある人物からの「生活改善」及び健康増進運動への視点は、前述の論にはない。だが、昭和三〇年代から五〇年代にかけて地域の保健衛生活動の要となって活躍していた一人の人物を取り上げないことには、地域活動の実態自体を明確に語ることはできない。そのとある人物とは、千種町保健婦として昭和三五年以降千種町域全体にわたって活躍していたA保健婦のことである。A保健婦の功績は数知れず、当時の無医村に近い医療環境の再構築や劣悪な衛生環境の改善などを行い、また千種町いずみ会、行政、山崎保健所などと協力しながら地域保健活動ならびに健康増進運動に自ら関わってきた。そこで本論においては、千種町いずみ会や行政の地域活動を直接捉えるのではなく、A保健婦というファクターを通して間接的に捉え新たな視点から活動実態と受容について明らかにしたい。また、この研究はA保健婦の「語り」を中心に関係者及び地域住民の「語り」をも含め、総合的に地域の「生活改善」及び健康増進運動がどのように「語ら」れていったのかを求めるものである。
昭和三〇年代から四〇年代にかけては、千種町の社会情勢ならびに地域生活環境が目まぐるしく変わる時期である。特に、保健衛生面での活動がそれらに大きく影響を及ぼしている。昭和三一年、兵庫県宍粟郡千種町西河内にある千種北小学校での健康診断の結果、児童の栄養不足による成長不良や悪質な衛生環境による健康不振といった問題が浮上した。そこで、小学校の保護者からなる育友会と学校側が協議し、昭和三五年児童の栄養を考え学校給食の実施に踏み切った。これにより一時的に西河内地区の健康状態は良好を保つことができた。ところが、地域の問題は児童の成長不良だけでなく、乳幼児の多産多死、脳卒中や脳梗塞ならびに高血圧症患者の増加、十二指腸虫(鉤虫)などの寄生虫による健康被害といった問題が山積していた。これらは、地域の出産における環境、労働環境、食生活環境、衛生環境に原因があり、一刻も早く解決する必要性があった。こうした健康被害が拡大する一方、地域住民の中にはこれらの諸問題について関心を持つ者がおらず。国民健康保険診療所(以下、国保診療所)や山崎保健所などが地域の衛生状況の悪化について触れて回っても地域住民の中に浸透しなかった。そうした住民の意識の低い中、昭和四三年婦人会組織の中から千種町いずみ会と呼ばれる団体が創立された。彼女らの活動は行政によって管理され、千種町全域を視野に入れた大規模な食生活改善、栄養改善活動、衛生改善活動を行った。また、千種町いずみ会は十二地区に分かれており、それぞれの地区に似合ったいずみ会活動がなされ、ある種自主的な活動も行っていた。こうした行政及び地域住民団体の積極的な動きの背景には、昭和四四年に教育委員会より施行された「千種町健康教育振興審議会条例」や、それに伴う「体位向上協議会」の実施といった地域の保健衛生環境の整備、地域住民の健康増進を目的とした政策があった。
そうした運動が展開する中で千種町いずみ会や千種町行政などの活動の中心にいたのが昭和三〇年代から五〇年代にかけて千種町保健婦として勤めていたA保健婦である。彼女の活動は、乳幼児の検診といった母子保健や地域の健康を考慮した食生活改善と栄養改善、公衆衛生や保健医療にかかわる部分での衛生改善指導、妊娠中絶の回避を勧めるべく受胎調整(家族計画)などの講演会の実施といった多岐にわたるものであった。そうした活動は千種町いずみ会や山崎保健所、生活改良普及員などの協力を得て行われたのである。
そうした地域住民組織との関係の一方で千種町行政による健康増進運動の展開に合わせて千種町保健婦としてその運動をリードし、多様な改善活動に貢献した。A保健婦は地域住民、千種町行政の橋渡し的な存在であり、いずれの活動に際しても熱心に取り組む姿は、地域住民から厚い信頼を得ていた。
第一節 地域保健活動と「生活改善」の研究史
(一) 地域保健活動と保健婦
そもそも、地域保健活動とはどのような活動を指すのであろうか。保健婦による地域の保健活動というのが簡単な言い方であろう。保健婦の介在なしには語れないこの地域保健活動と行政や地域住民の協同活動の中での地域保健活動、これらは対象が異なるだけのことで基礎は保健婦によって築かれているので同様のものである。また、題名にも載せている健康増進運動もこの地域保健活動とよく似ている。前者は健康増進、つまり現在の健康状態を保ちながらそれを増幅させていくという活動。具体的には体力向上や体位向上、スポーツなどによる身体の強化などが目的である。一方、後者は地域の保健衛生に関わる活動、つまりは地域内の衛生環境の改善やそれによる健康被害の増幅を抑えるための処置などが活動の内容となる。具体的には衛生改善などがこれにあたる。しかし、こうした区分は先にも述べたとおり言葉上の区分であり、あまり意味をなさない。健康増進運動も裏を返せば健康被害の増幅を抑えるために行う活動であり、地域保健活動とあまり変わりないものである。また、保健婦の介在についてもどちらもいえることであり、さほど違いがあるわけではない。
そうした地域保健活動における保健婦の位置づけというものについて少し触れておく。
「公衆衛生」という言葉があるように、地域全域にわたる衛生環境の美化を基本とする活動が保健婦には課せられている。保健婦助産婦看護婦法(現在は保健師助産師看護師法となっている)には第一章総則第一条に「医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする」となっており、具体的に地域の生活環境の改善から地域住民に対して保健衛生知識の普及に努め、且つ地域医療の立場から検診や巡回診療もその活動に含まれることとなっている。つまり、先に述べた地域保健活動のことを「公衆衛生」という言葉は含んでいる。保健婦はそうした地域保健活動の先頭に立って、衛生普及、医療補助、巡回検診を行う人物なのである。
(二) 従来の生活改善研究への「新たな」位置づけ
従来の生活改善諸活動の研究史において、こうした地域保健活動を位置づけることはなかったように思われる。生活改善諸活動の一つとして数えられる、保健所活動は別としても、地域行政、地域住民協同に地域保健活動は従来の研究史においては「新しい」位置づけが必要であると考える。そもそも、生活改善諸活動を一つの定義化した折には、まずは団体の存在があり、それには設立にかかわる活動理念や政策、実際地域で行うための施策などがあってはじめて成り立つものである。しかしながら、千種町いずみ会の活動や行政の健康増進運動を見てみると、そうした設立理念があってのものではなく、地域問題への対応の緊急性を前面に出したものであり、理念、政策、施行といった形で地域に広がるのではなく、活動そのもの自体が地域に直結する形で成り立っている。つまり、組織的な仕組みを持たないものであり、それを生活改善諸活動の研究史の中に位置付ける事態難しいものがある。
そこで一度、千種町いずみ会の活動を地域保健活動の研究史の中でとらえた上で、生活改善諸活動の研究の中での位置づけを行ってみたい。地域保健活動の研究は「公衆衛生」側からのアプローチがほとんどで論文はほぼ医学系論文や社会学系論文に多い。本論では医学系論文の中の一つ『公衆衛生』という雑誌から地域保健活動についてアプローチしたいと思う。
まず、立身政一の「農村生活と地域保健活動」というものがある。秋田県の地域保健活動を題材にしたもので、秋田県の生活環境ならびに保健の実態を明らかにしたうえで、どのような問題が地域で起こっているのかを衣食住そして意識面から分析し、その対処として医師などによる巡回診療行為や地域住民による農村保健活動の活動実態を詳しく論じている。この立身の論は実態を明らかにするにとどまり、その後、地域住民と医師、農協の医療班の活動に期待することで論を閉じている。地域保健活動の実態把握のみがとり立たされ、その意義などについては論じていないのが現状である。確かに、農村生活における地域保健活動を述べるにあたってはデータを述べるにとどまるしかないのが現状であろう。本研究でいう健康増進運動という地域保健活動も、その組織構造が複雑多岐にわたり、活動それぞれにリンクしておらず、その活動実態を論じるといっても報告程度にしかならないのである。
これに対して三沢博人の「市町村を主体とした地域保健活動」においては、活動の報告に限らず、市町村で具体的にどのような取り組みをすべきかを実学的に描いている。三沢はまず新潟県の例を挙げそこでの保健衛生状態の悪化を述べた後、地域の保健所の実態を明らかにしている。「保健所は法規に定められた仕事を自分の持つ能力技術の枠内だけで処理する保健所本位の事業活動に終始」しており、その枠外のものに対しては対処できない現実を突きつけている。そういった保健所の問題点に触れながら三沢は市町村行政と保健所の連携による保健行政の体制の確立と、地域住民による自主的な組織活動を提唱している。具体的な連携活動として、「住みよい郷土建設運動」「住民の手による結核検診」「食生活改善の組織的な活動」を挙げ、行政、保健所、地域住民の総合的な保健活動の推進を考えている。この活動のためには公衆衛生推進委員や衛生委員、食生活改善推進委員、母子保健委員などを立ち上げ、地域の保健衛生の普及を目指している。最後に三沢は「「その(活動の)主体が地域の住民・市民であり」、「住民・市民と専門家が、地域保健問題の解決と保健水準の向上発展のために、一体となって努力し、必要なsocial actionを展開していく」ならば、従来の公衆衛生がもつ基本的な考え方や、制度面で古さや欠陥はやがて払拭され改善されていくことは間違いない。」と締めくくっている。
これらの研究から言えることは、地域連携型の地域保健活動の重要性と住民参画型の活動の構築が主題となっている。では、これらの研究において本研究の位置づけを行ってみると、立身がいう実態調査の必要性と三沢の言う地域連携型の地域保健活動の展開を両方とも兼ね備えた者といってよいと考える。本研究で扱う、千種町いずみ会やA保健婦や保健所による健康増進運動がまさに三沢の言う「social action」の一つの手段であることがうかがえる。
さて、地域保健活動研究における位置づけは以上のようなものであるが、生活改善研究におけるこの活動の位置づけをどうするべきかを次に考えたい。生活改善諸活動研究では生活改善普及事業、新生活運動、保健所活動、公民館活動の四つの団体を主体に研究がなされているが、ほとんどが生活改善普及事業、新生活運動の分析に終始しており、保健所活動、公民館活動に関する研究は少ない。本論で取り上げる活動も保健所活動の一環といえばそうであるが、保健所主体に活動が展開したわけではないのでこの四つの活動の中に入れることはできない。そこで新しい枠を考えたいと思う。従来の研究では官製の生活改善という枠組みの中で処理がされてきた。官製の生活改善とは政府行政諸機関が主体となって行ったいわゆる生活改善諸活動と呼ばれる活動のことを指す。ところが、それに属さない民製の「生活改善」という者がある。民製の「生活改善」とは地域住民が主体となって起こした生活向上を目指した活動並びに運動のことである。但し、この「生活改善」は何も地域住民だけが関与しているとは限らない。先の地域保健活動と同様、行政や保健所も関与しているものである。これら二つの枠組みにおいて本論は民製の「生活改善」の中で論じるものとしたい。行政や保健所の関与もうかがえるが、基本は地域住民による活動とそれを支えたA保健婦を題材としているので、民製の「生活改善」の位置づけで考えておきたい。
以上が今書き進めている段階の論文となります。それなりに見えるでしょうかね。とにかく、これでも問題だらけで、A保健婦をタイアップすると言っておきながら地域保健運動のタイアップが先になってしまい、何かしら違和感を感じる文章ともなっています。しかしながら、従来こうした視点研究がなかったわけですから、失敗は覚悟の上です。そのため毎日のように修正をしています。A保健婦に関してはこの次の章で扱おうかとおもっているのですが、少し前置きをし置く必要もありそうです。何とか完成すればいいんですけど…来年の日本民俗学会ではぜひとも発表できるようにしておきたいものです。
さて、この度は現在進行中の新論文構想とそれに関する調査日程についてお話したいと思います。
先日、以前調査にご協力をいただいた方から紹介された人を伝って、「千種町いずみ会」「行政」「A保健婦」「健康推進委員」だった方々に調査協力要請と御挨拶をかねて連絡をしていました。皆さん、最初は訝しがっていましたが、私が研究の目的とどういうことを調べているのかを話すと、いきなり「そんなこともあったなぁ」「なつかしいなぁ」と仰っていただき、調査の協力を得ることができました。
次にしないといけないのが電話ではなく、手紙での調査協力要請をすることです。これをすることで、電話では説明しづらかった内容にまで踏み込み、具体的に何を目的にしているのかを表明することができます。私の場合、調査のメリット、デメリットを加えて書いていますが、まぁこれは官公庁向けに書く場合のみです。普段は研究趣旨、調査項目、協力要請、調査日程などといった順で並べていきます。
これで終わりと思ったら調査予定日が変更になった時の対処ができづらいため、再度電話して厳密な日程調整を行い、その後案内状として現地に手紙を送ります。そうした手間をかけて調査に入るのですが、私はこの方法が当然のことと思っています。もし、ここがこうしたほうがいいと仰る点があればまた指摘してください。
こうして調査準備が整ってくると、次に大変なのが新論文の構成と書きだし部分の調整です。まだ調査が一回目ということもあってか、あまり書けませんが、「書けるところから書く」という心情のもと、部分的なパズルとして文章を書いていっています。なお、後で修正が効くように配慮しながらですがね。
今回の論文は今まで話してきたように、A保健婦という一人の人のライフヒストリーを描き出すものです。A保健婦が昭和30年代から50年代にかけて行政ならびに地域住民団体千種町いずみ会や健康推進委員らとどのように関係をもち活動を行ってきたのか、A保健婦自身の活動が地域の活動にどう結びついていったのかを詳しく追ってみることが主目的になっています。ですので、少し今までとは勝手が違う論文となりますので、慎重にならざるを得ないのですが、筆が止まってしまっていてはどうにもなりませんので、早速書き始めています。⇓
ある保健婦の足跡から見る地域の健康増進運動の展開
―行政、地域住民参画型事業の活動実態について―
はじめに
本研究は、昭和四〇年代以降、兵庫県宍粟市千種町の地域生活の変遷過程において影響を及ぼしたとされる、婦人会団体千種町いずみ会と行政が行った健康増進運動の実態と地域住民によるその活動の受容を新たにA保健婦の視点から見直すものである。
以前、千種町いずみ会、行政が地域の生活の向上と健康増進運動について地域住民の生活に彼らはどのように入り込み、そしてどう「生活改善」を行い、いかにして地域の要望に従った活動がなされていたかを論じた。その際、千種町いずみ会を中心に、A保健婦や行政の協力のもと啓発運動や栄養改善、健康診断などを通じて地域住民の生活範囲内で活動しながら、「健康」に対する認識を植えつけていき、地域住民の「健康不安」に応えるべく様々な「生活改善」を行い、結果的に生活にそれが浸透し、受容されたと述べた。
しかしながらこれらは地域団体である千種町いずみ会の視点からの動きであって、そこに関わり、彼らを支持し導いていったとされる、とある人物からの「生活改善」及び健康増進運動への視点は、前述の論にはない。だが、昭和三〇年代から五〇年代にかけて地域の保健衛生活動の要となって活躍していた一人の人物を取り上げないことには、地域活動の実態自体を明確に語ることはできない。そのとある人物とは、千種町保健婦として昭和三五年以降千種町域全体にわたって活躍していたA保健婦のことである。A保健婦の功績は数知れず、当時の無医村に近い医療環境の再構築や劣悪な衛生環境の改善などを行い、また千種町いずみ会、行政、山崎保健所などと協力しながら地域保健活動ならびに健康増進運動に自ら関わってきた。そこで本論においては、千種町いずみ会や行政の地域活動を直接捉えるのではなく、A保健婦というファクターを通して間接的に捉え新たな視点から活動実態と受容について明らかにしたい。また、この研究はA保健婦の「語り」を中心に関係者及び地域住民の「語り」をも含め、総合的に地域の「生活改善」及び健康増進運動がどのように「語ら」れていったのかを求めるものである。
昭和三〇年代から四〇年代にかけては、千種町の社会情勢ならびに地域生活環境が目まぐるしく変わる時期である。特に、保健衛生面での活動がそれらに大きく影響を及ぼしている。昭和三一年、兵庫県宍粟郡千種町西河内にある千種北小学校での健康診断の結果、児童の栄養不足による成長不良や悪質な衛生環境による健康不振といった問題が浮上した。そこで、小学校の保護者からなる育友会と学校側が協議し、昭和三五年児童の栄養を考え学校給食の実施に踏み切った。これにより一時的に西河内地区の健康状態は良好を保つことができた。ところが、地域の問題は児童の成長不良だけでなく、乳幼児の多産多死、脳卒中や脳梗塞ならびに高血圧症患者の増加、十二指腸虫(鉤虫)などの寄生虫による健康被害といった問題が山積していた。これらは、地域の出産における環境、労働環境、食生活環境、衛生環境に原因があり、一刻も早く解決する必要性があった。こうした健康被害が拡大する一方、地域住民の中にはこれらの諸問題について関心を持つ者がおらず。国民健康保険診療所(以下、国保診療所)や山崎保健所などが地域の衛生状況の悪化について触れて回っても地域住民の中に浸透しなかった。そうした住民の意識の低い中、昭和四三年婦人会組織の中から千種町いずみ会と呼ばれる団体が創立された。彼女らの活動は行政によって管理され、千種町全域を視野に入れた大規模な食生活改善、栄養改善活動、衛生改善活動を行った。また、千種町いずみ会は十二地区に分かれており、それぞれの地区に似合ったいずみ会活動がなされ、ある種自主的な活動も行っていた。こうした行政及び地域住民団体の積極的な動きの背景には、昭和四四年に教育委員会より施行された「千種町健康教育振興審議会条例」や、それに伴う「体位向上協議会」の実施といった地域の保健衛生環境の整備、地域住民の健康増進を目的とした政策があった。
そうした運動が展開する中で千種町いずみ会や千種町行政などの活動の中心にいたのが昭和三〇年代から五〇年代にかけて千種町保健婦として勤めていたA保健婦である。彼女の活動は、乳幼児の検診といった母子保健や地域の健康を考慮した食生活改善と栄養改善、公衆衛生や保健医療にかかわる部分での衛生改善指導、妊娠中絶の回避を勧めるべく受胎調整(家族計画)などの講演会の実施といった多岐にわたるものであった。そうした活動は千種町いずみ会や山崎保健所、生活改良普及員などの協力を得て行われたのである。
そうした地域住民組織との関係の一方で千種町行政による健康増進運動の展開に合わせて千種町保健婦としてその運動をリードし、多様な改善活動に貢献した。A保健婦は地域住民、千種町行政の橋渡し的な存在であり、いずれの活動に際しても熱心に取り組む姿は、地域住民から厚い信頼を得ていた。
第一節 地域保健活動と「生活改善」の研究史
(一) 地域保健活動と保健婦
そもそも、地域保健活動とはどのような活動を指すのであろうか。保健婦による地域の保健活動というのが簡単な言い方であろう。保健婦の介在なしには語れないこの地域保健活動と行政や地域住民の協同活動の中での地域保健活動、これらは対象が異なるだけのことで基礎は保健婦によって築かれているので同様のものである。また、題名にも載せている健康増進運動もこの地域保健活動とよく似ている。前者は健康増進、つまり現在の健康状態を保ちながらそれを増幅させていくという活動。具体的には体力向上や体位向上、スポーツなどによる身体の強化などが目的である。一方、後者は地域の保健衛生に関わる活動、つまりは地域内の衛生環境の改善やそれによる健康被害の増幅を抑えるための処置などが活動の内容となる。具体的には衛生改善などがこれにあたる。しかし、こうした区分は先にも述べたとおり言葉上の区分であり、あまり意味をなさない。健康増進運動も裏を返せば健康被害の増幅を抑えるために行う活動であり、地域保健活動とあまり変わりないものである。また、保健婦の介在についてもどちらもいえることであり、さほど違いがあるわけではない。
そうした地域保健活動における保健婦の位置づけというものについて少し触れておく。
「公衆衛生」という言葉があるように、地域全域にわたる衛生環境の美化を基本とする活動が保健婦には課せられている。保健婦助産婦看護婦法(現在は保健師助産師看護師法となっている)には第一章総則第一条に「医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする」となっており、具体的に地域の生活環境の改善から地域住民に対して保健衛生知識の普及に努め、且つ地域医療の立場から検診や巡回診療もその活動に含まれることとなっている。つまり、先に述べた地域保健活動のことを「公衆衛生」という言葉は含んでいる。保健婦はそうした地域保健活動の先頭に立って、衛生普及、医療補助、巡回検診を行う人物なのである。
(二) 従来の生活改善研究への「新たな」位置づけ
従来の生活改善諸活動の研究史において、こうした地域保健活動を位置づけることはなかったように思われる。生活改善諸活動の一つとして数えられる、保健所活動は別としても、地域行政、地域住民協同に地域保健活動は従来の研究史においては「新しい」位置づけが必要であると考える。そもそも、生活改善諸活動を一つの定義化した折には、まずは団体の存在があり、それには設立にかかわる活動理念や政策、実際地域で行うための施策などがあってはじめて成り立つものである。しかしながら、千種町いずみ会の活動や行政の健康増進運動を見てみると、そうした設立理念があってのものではなく、地域問題への対応の緊急性を前面に出したものであり、理念、政策、施行といった形で地域に広がるのではなく、活動そのもの自体が地域に直結する形で成り立っている。つまり、組織的な仕組みを持たないものであり、それを生活改善諸活動の研究史の中に位置付ける事態難しいものがある。
そこで一度、千種町いずみ会の活動を地域保健活動の研究史の中でとらえた上で、生活改善諸活動の研究の中での位置づけを行ってみたい。地域保健活動の研究は「公衆衛生」側からのアプローチがほとんどで論文はほぼ医学系論文や社会学系論文に多い。本論では医学系論文の中の一つ『公衆衛生』という雑誌から地域保健活動についてアプローチしたいと思う。
まず、立身政一の「農村生活と地域保健活動」というものがある。秋田県の地域保健活動を題材にしたもので、秋田県の生活環境ならびに保健の実態を明らかにしたうえで、どのような問題が地域で起こっているのかを衣食住そして意識面から分析し、その対処として医師などによる巡回診療行為や地域住民による農村保健活動の活動実態を詳しく論じている。この立身の論は実態を明らかにするにとどまり、その後、地域住民と医師、農協の医療班の活動に期待することで論を閉じている。地域保健活動の実態把握のみがとり立たされ、その意義などについては論じていないのが現状である。確かに、農村生活における地域保健活動を述べるにあたってはデータを述べるにとどまるしかないのが現状であろう。本研究でいう健康増進運動という地域保健活動も、その組織構造が複雑多岐にわたり、活動それぞれにリンクしておらず、その活動実態を論じるといっても報告程度にしかならないのである。
これに対して三沢博人の「市町村を主体とした地域保健活動」においては、活動の報告に限らず、市町村で具体的にどのような取り組みをすべきかを実学的に描いている。三沢はまず新潟県の例を挙げそこでの保健衛生状態の悪化を述べた後、地域の保健所の実態を明らかにしている。「保健所は法規に定められた仕事を自分の持つ能力技術の枠内だけで処理する保健所本位の事業活動に終始」しており、その枠外のものに対しては対処できない現実を突きつけている。そういった保健所の問題点に触れながら三沢は市町村行政と保健所の連携による保健行政の体制の確立と、地域住民による自主的な組織活動を提唱している。具体的な連携活動として、「住みよい郷土建設運動」「住民の手による結核検診」「食生活改善の組織的な活動」を挙げ、行政、保健所、地域住民の総合的な保健活動の推進を考えている。この活動のためには公衆衛生推進委員や衛生委員、食生活改善推進委員、母子保健委員などを立ち上げ、地域の保健衛生の普及を目指している。最後に三沢は「「その(活動の)主体が地域の住民・市民であり」、「住民・市民と専門家が、地域保健問題の解決と保健水準の向上発展のために、一体となって努力し、必要なsocial actionを展開していく」ならば、従来の公衆衛生がもつ基本的な考え方や、制度面で古さや欠陥はやがて払拭され改善されていくことは間違いない。」と締めくくっている。
これらの研究から言えることは、地域連携型の地域保健活動の重要性と住民参画型の活動の構築が主題となっている。では、これらの研究において本研究の位置づけを行ってみると、立身がいう実態調査の必要性と三沢の言う地域連携型の地域保健活動の展開を両方とも兼ね備えた者といってよいと考える。本研究で扱う、千種町いずみ会やA保健婦や保健所による健康増進運動がまさに三沢の言う「social action」の一つの手段であることがうかがえる。
さて、地域保健活動研究における位置づけは以上のようなものであるが、生活改善研究におけるこの活動の位置づけをどうするべきかを次に考えたい。生活改善諸活動研究では生活改善普及事業、新生活運動、保健所活動、公民館活動の四つの団体を主体に研究がなされているが、ほとんどが生活改善普及事業、新生活運動の分析に終始しており、保健所活動、公民館活動に関する研究は少ない。本論で取り上げる活動も保健所活動の一環といえばそうであるが、保健所主体に活動が展開したわけではないのでこの四つの活動の中に入れることはできない。そこで新しい枠を考えたいと思う。従来の研究では官製の生活改善という枠組みの中で処理がされてきた。官製の生活改善とは政府行政諸機関が主体となって行ったいわゆる生活改善諸活動と呼ばれる活動のことを指す。ところが、それに属さない民製の「生活改善」という者がある。民製の「生活改善」とは地域住民が主体となって起こした生活向上を目指した活動並びに運動のことである。但し、この「生活改善」は何も地域住民だけが関与しているとは限らない。先の地域保健活動と同様、行政や保健所も関与しているものである。これら二つの枠組みにおいて本論は民製の「生活改善」の中で論じるものとしたい。行政や保健所の関与もうかがえるが、基本は地域住民による活動とそれを支えたA保健婦を題材としているので、民製の「生活改善」の位置づけで考えておきたい。
以上が今書き進めている段階の論文となります。それなりに見えるでしょうかね。とにかく、これでも問題だらけで、A保健婦をタイアップすると言っておきながら地域保健運動のタイアップが先になってしまい、何かしら違和感を感じる文章ともなっています。しかしながら、従来こうした視点研究がなかったわけですから、失敗は覚悟の上です。そのため毎日のように修正をしています。A保健婦に関してはこの次の章で扱おうかとおもっているのですが、少し前置きをし置く必要もありそうです。何とか完成すればいいんですけど…来年の日本民俗学会ではぜひとも発表できるようにしておきたいものです。
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