こんばんは。久々の更新となります。ご無沙汰します。
さて、ここまで私のツイート並びにブログでの投稿をご覧の方はおわかりとおもいますが、私は保健婦研究に際しまして、『生活教育』という雑誌の「保健婦の手記」(「保健婦手記」)について分析を行っています。
そこで、この度はこの「保健婦手記」というものがさす意味、またこれがどういう資料性をもっているのかについてもう一度深く検討してみたいと思います。
なぜこのようなことをしようと思ったのかというと、これまで私は『生活教育』内で扱われていた「保健婦の手記」というものについて、保健婦の行動記録として位置付けてまいりましたが、いろいろ見ていくとただそれだけのものとは異なるものがみえてきたので、ここで今一度自己確認を込めて記しておきたいと思ったのです。
また、私自身、この保健婦研究について、この間まではどこか「生活の変化」の中で保健婦を扱おうと思っている節がありました。ですが、保健婦というのは「生活の変化」の要因の一つと位置付けるよりも、彼ら自身がどういう役割を担い、どういう形で村と接してきたのかをみる方が先決のような感じもしました。と申しますのも、保健婦と村人との関係性は「保健婦手記」をみる限り、かなり深い関係にあります。その関係性がどのように気付かれて行ったのかを知ることは同時に「生活の変化」や生活そのものにアプローチしていくものと思います。つまり、「生活の変化」は副次的なものであり、これを中心に扱うのではなく、「保健婦が」どうであったのかを中心に考え、その中に生活を見出すこともできないかと思うわけです。なので、私は少し路線変更をし、保健婦自身を深く知ることにしたいと思います。
さて、話がそれましたが、その保健婦が書いたもの、日常の記録を記したものとしての「保健婦の手記」が『生活教育』の中ではよく取り扱われます。『生活教育』とは月刊の保健婦をターゲットにした教育雑誌で、昭和30年頃(現存しているのが昭和35年3月号からなのでそれ以前のはまだ分かっていません)で、発足のきっかけとしては「公衆衛生の退潮期を支える最大のホープとして、今日ほど保健婦に大きなきたいをかけられたことは、かつてんなかつたと思われます。ただ現代の保健婦業務は、時代の推移を反映して単なる看護技術や予防医学から、一そう広い民衆生活の深層にむかつて拡がつて参りました。その拡大された業務上の要望に応えるべく、エーザイ社の全面的協賛の下に私ども刊行委員会はこの「生活教育」誌の刊行と頒布を決意したのであります」(『生活教育』昭和35年3月号 96頁 「「生活教育」刊行のことば」より)となっており、要するに昭和30年代より戦後の公衆衛生行政の立て直しのために活躍している保健婦に注目し、彼らの活動がどのようなことをしていたのか、その技術面だけでなく民衆生活の「深層」にどうアプローチしていったのかという、読者である昭和30年代現在の保健婦業務についている人たちの要望に応えるべく記した雑誌です。いうなれば、保健婦のための手引書、教科書的なものとして位置付けられるものです。ただ、その教科書の特性は少し他の雑誌とは異なります。同時代に出された『保健婦雑誌』は、どちらかというと技術面、保健婦業務面におけるサポートが中心であるのに対し、『生活教育』の方針は保健婦の精神面、規律面についての記事が多くみられます。技術面もさながら、保健婦としての心構えを記した本誌は、『保健婦雑誌』にはない社会教育的な取り組みがなされています。その一環として「保健婦の手記」があるわけです。
「保健婦の手記」というのは、保健婦自らによる寄稿によってなりたつ記事です。全国各地の保健婦の体験談、経験談を保健婦自らが『生活教育』に寄稿し、それらを刊行委員ら(丸岡秀子、金子光、永野貞、石垣純二ら)の審査によって一位から佳作までの評価を受けたものです。つまり、『生活教育』による保健婦の体験談のコンクール的な要素をもった企画なのです。審査が入るので、幾分か刊行委員の意図がみえかくれはするものの、保健婦がどのような活動をし、どのようなことを考え、悩み、感じていたのかということを丁寧に扱ったものであり、保健婦の動きを知る上で貴重な資料と言えます。
ところで、この「保健婦の手記」について従来の保健婦研究ではどういう扱いをされてきたかというと、保健婦資料館が出している定期刊行物『保健師の歴史研究』(公衆衛生看護史研究会・保健婦資料館 2005)にいくつかみられるのみで、他の研究、例えば保健婦の歴史にかかわる研究という文脈の中では、あまり扱いが見られません。従来の研究では、保健婦の歴史は、制度史、法制史そういう並びでの扱いであり、保健婦個々よりも、保健婦という職掌がどのような役割をになっていたのかを制度の面から見ていこうというものでした。これは確かに大きな歴史の流れを考える上では重要なことではありますが、しかしながら保健婦の実態ということについてはこの歴史をそのまま真に受けることはできません。といいますのも、保健婦の実態では、制度について疑問視する声があったり、制度に背いてまでも医療行為を行った経験があったりと、そのほかかなり歴史相とは異なったものがあります。それが見られるのが「保健婦の手記」なのです。また、雑誌『生活教育』に限らず、保健婦の記録を扱ったものは多々あり、それらを総称して私は「保健婦手記」として扱っていこうと思っています。この「保健婦手記」というのは、単なる保健婦の記録という特性を持ち合わせるのではなく、先に記したように保健婦の思想、考え、悩みなど主観的な部分を多分に含んだ要素をもっています。「保健婦手記」というのは、従来の保健婦の歴史研究では扱われてこなかった保健婦の生の声を聞くことができる資料なのです。
ただし、「保健婦手記」には多くの問題点があります。まずその書き方です。記述の仕方が読ませる文章になっていること。つまり意図的に作為的に自己の経験を書いているという点です。現実的なことを言えば、それは本当にその当時あったことであるのか、どうかといった真偽のほどは保健婦のみぞ知るというもので、実証性が低いものでもあります。これは大きな問題でもありますが、一方で保健婦がどういうメッセージをおくっていたのかということを知る資料としては十分効力を発揮する者でもあります。なので、この資料をそのまま引用するだけでなく、保健婦の制度、その当時の社会的変動と合わせてみることにより立体的に浮き彫りにできるものであると考えます。
次の問題点として、保健婦の立ち位置の問題です。これは先の意図的なものと被るかもしれませんが、「保健婦手記」が綴られた当時、保健婦がどのような身分にいてどのような立場にある人間であったのかということによっては、その記述の持つメッセージ性の強弱に差がみられるとい事です。つまり、すべての資料を一つのものとして考えたり、資料をまとめてこういうことが言えるというようなあり方にすると少し誤解を招く恐れがあります。保健婦個々の性格もありますし、その立場というものがどういう風に手記に表れているのかをちゃんと整理したうえでなければ扱いづらいという難点があります。ただ、これは手記というものがいかに保健婦の内情をとらえているのかということも同時に示しており、保健婦の発言の様相を深く知るものでもあります。なので、個々の保健婦の立ち位置を踏まえ、どういう発言が彼らに可能であったのかということから、保健婦の内情、保健婦業務の裏側を探ることが可能なのです。
さらにこれは問題点ではないのですが、保健婦手記には読者がいて、その読者もまた保健婦であるということも考慮に含めなければなりません。特に『生活教育』などの場合、保健婦が保健婦に対して述べている記事もあり、その真意は保健婦が同意境地に立たされているのかを知るものでもあります。なので、その読者側がどう手記を読んでいたのかも考えなければならないのです。
以上のように、「保健婦手記」というものが含む問題点、展望そういうのを加味したうえで今一度、「保健婦手記」を読んでいくと、歴史面とは違った保健婦の顔が見えてくるのではないでしょうか。
まだまだ至らぬ点があり、ブログで表明するには難点がありますが、今のところの思っていることを「保健婦手記」をどうみるかということとしてまとめてみました。
今後は、『生活教育』もそうなのですが、ほかにも「保健婦手記」は多方面にあり、例えばそれは雑誌の一こまであったり、小説の題材であったり、半生記であったり、などなど多様な形をもっています。それらの資料を今一度整理しながら、「保健婦手記」とは何なのか、またそれはどう読むべきなのかということについても触れていきたいと思います。
末筆ではありますがTwtter(楓瑞樹@御京楓)もフォローのほどよろしくお願いします。こちらでも定期的に呟いていますので、研究のほどがリアルタイムにわかります。
2012年12月10日月曜日
2012年12月2日日曜日
保健婦をどう見るかということ。(その2)
おはようございます。朝っぱらから何をしてんだと言われかねない時間帯ではありますが、昨日考えたことを整理しているまでです。ご了承ください。
昨日、「保健婦をどう見るかということ」としてブログにアップさせていただきましが。この記事についてあと後自分で考えてみて、少し付け加えるところといいますか、自分なりに保健婦研究をするにあたっての諸注意事項としてもう少し深く見ていこうと思ったからです。以下の文は、先のブログに対しての振り返りと、今後のことについてを少しまとめたものです。
保健婦の研究には、単に保健婦個人、保健婦という存在をまるっと扱うのではない。保健婦個人を扱うのであれば、それは個人史であったりして別段民俗学の中でこれを定義することは必要ないし、その上民俗学との関連性を言うのであれば、保健婦個人よりもその周辺のことであり、あくまで個人はその上にあるものだという考え方がある。保健婦がその労働力を向けた地域やそこに住む人々についても深く掘り下げる必要性があり、保健婦はそうした地域において規定されなければならないとさえ思う。保健婦を民俗学の中で位置付けることというのは、地域生活、地域住民との有機的な関係性をそこに見出したのであり、保健婦個人を調べるものではない。また、保健婦を特別に強調し、その存在を文脈の中で明らかにすることが主体ではない。確かに、保健婦の略歴や経験の記述は大切ではあるが、それは地域活動において、保健婦が有する経験知がどのように働いていたのかということを明らかにする手段であり、目的というわけではない。民俗学で保健婦を扱うときの目的は、どうしても地域生活の変化の中で保健婦が与えた影響であったり、保健婦がどのような働きをしていたのかということを地域社会の役割の中でみていくことにこそあると思う。
しかし、ただ地域生活での分析を進めていくにあたって、それでは保健婦の存在意義というものがあまりに薄くなってしまわないかという疑問もある。そもそも、保健婦でなくとも別なものであってもいいと思うことすらある。ここで、保健婦をあげる以上、この保健婦にしかない特徴をまず取り上げる必要性があるのではないだろうか。その上で上記のような地域生活の中で彼女らの活動をみていくことが大切であると思う。つまり、単に地域生活の中での彼女らをみるだけでなく、保健婦自身にも気を配らなければならないということである。保健婦自身がどのような経験を経て、どのような経験知を得て、地域で活動をしているのかといった、彼女らのスキルの部分をみることは、地域での活動の根底部分、意図する部分においての動機付け、意図などを読み取ることにもつながる。なので、民俗学で保健婦を位置づけするに当たり、地域活動の中で保健婦を規定するだけでは、保健婦のことをあまりに軽んじてはいないだろうかと思ったりする。
民俗学における、保健婦の見方を論じるに当たっては、二つの視点が以上のことから言えると思う。一つに、地域生活の中における彼女らの働きから保健婦を論じるということ。二点目は、保健婦自身がどういう経験知をもって活動に挑んだのかという保健婦自身を論じるということ。この二点は本来は別々のものではあるが、双方ともにみて初めて一本の保健婦の諸相を明らかにするものである。だから、どちらか片方の見方に偏って、考えていけば、あまりに視野の狭い論になりかねない。例えば、結核診断のことをあげるならば、この結核診断は地域生活においては保健衛生上必要なことであり、行政としても結核予防法に基づき、結核患者を隔離しなければならない。そのために保健婦がその役割を担っているのだとするのである。これをみる限り、保健婦は結核という地域の問題の中に位置し、地域生活と結核患者の中でのみ語られるような形になっている。そこはどこか業務的であり、報告的な描き方でしかないような形だ。従来の民俗学ではこうしたちょっとした報告に保健婦をあげることは多い。だが、結核予防ということは保健婦の経験知の中でこそその業務はあり、保健婦がどのような気持ちでどのような方法をとりながら結核患者と接していたのか、そういう保健婦の働きの中に地域生活を置くことも重要なことである。つまり、保健婦を民俗学で見る場合、そこに地域と保健婦双方をみる視点がひつようであるということ。地域生活も大事であるが、同じぐらい保健婦自身のことも重要であることを念頭に置きながら考える必要性がある。この地域と保健婦の関係性が交わるところにこそ、保健婦の真骨頂が見られるではないだろうか。
ちょっと長くなりましたが、先の保健婦をどう見るかという問題について自分なりに決着をつけてみました。まぁ、これは何かを参照して出した答えではなく、私なりの知識の中でどのような方法が民俗学としてありうるかそういうのを考えた結果です。
昨日、「保健婦をどう見るかということ」としてブログにアップさせていただきましが。この記事についてあと後自分で考えてみて、少し付け加えるところといいますか、自分なりに保健婦研究をするにあたっての諸注意事項としてもう少し深く見ていこうと思ったからです。以下の文は、先のブログに対しての振り返りと、今後のことについてを少しまとめたものです。
保健婦の研究には、単に保健婦個人、保健婦という存在をまるっと扱うのではない。保健婦個人を扱うのであれば、それは個人史であったりして別段民俗学の中でこれを定義することは必要ないし、その上民俗学との関連性を言うのであれば、保健婦個人よりもその周辺のことであり、あくまで個人はその上にあるものだという考え方がある。保健婦がその労働力を向けた地域やそこに住む人々についても深く掘り下げる必要性があり、保健婦はそうした地域において規定されなければならないとさえ思う。保健婦を民俗学の中で位置付けることというのは、地域生活、地域住民との有機的な関係性をそこに見出したのであり、保健婦個人を調べるものではない。また、保健婦を特別に強調し、その存在を文脈の中で明らかにすることが主体ではない。確かに、保健婦の略歴や経験の記述は大切ではあるが、それは地域活動において、保健婦が有する経験知がどのように働いていたのかということを明らかにする手段であり、目的というわけではない。民俗学で保健婦を扱うときの目的は、どうしても地域生活の変化の中で保健婦が与えた影響であったり、保健婦がどのような働きをしていたのかということを地域社会の役割の中でみていくことにこそあると思う。
しかし、ただ地域生活での分析を進めていくにあたって、それでは保健婦の存在意義というものがあまりに薄くなってしまわないかという疑問もある。そもそも、保健婦でなくとも別なものであってもいいと思うことすらある。ここで、保健婦をあげる以上、この保健婦にしかない特徴をまず取り上げる必要性があるのではないだろうか。その上で上記のような地域生活の中で彼女らの活動をみていくことが大切であると思う。つまり、単に地域生活の中での彼女らをみるだけでなく、保健婦自身にも気を配らなければならないということである。保健婦自身がどのような経験を経て、どのような経験知を得て、地域で活動をしているのかといった、彼女らのスキルの部分をみることは、地域での活動の根底部分、意図する部分においての動機付け、意図などを読み取ることにもつながる。なので、民俗学で保健婦を位置づけするに当たり、地域活動の中で保健婦を規定するだけでは、保健婦のことをあまりに軽んじてはいないだろうかと思ったりする。
民俗学における、保健婦の見方を論じるに当たっては、二つの視点が以上のことから言えると思う。一つに、地域生活の中における彼女らの働きから保健婦を論じるということ。二点目は、保健婦自身がどういう経験知をもって活動に挑んだのかという保健婦自身を論じるということ。この二点は本来は別々のものではあるが、双方ともにみて初めて一本の保健婦の諸相を明らかにするものである。だから、どちらか片方の見方に偏って、考えていけば、あまりに視野の狭い論になりかねない。例えば、結核診断のことをあげるならば、この結核診断は地域生活においては保健衛生上必要なことであり、行政としても結核予防法に基づき、結核患者を隔離しなければならない。そのために保健婦がその役割を担っているのだとするのである。これをみる限り、保健婦は結核という地域の問題の中に位置し、地域生活と結核患者の中でのみ語られるような形になっている。そこはどこか業務的であり、報告的な描き方でしかないような形だ。従来の民俗学ではこうしたちょっとした報告に保健婦をあげることは多い。だが、結核予防ということは保健婦の経験知の中でこそその業務はあり、保健婦がどのような気持ちでどのような方法をとりながら結核患者と接していたのか、そういう保健婦の働きの中に地域生活を置くことも重要なことである。つまり、保健婦を民俗学で見る場合、そこに地域と保健婦双方をみる視点がひつようであるということ。地域生活も大事であるが、同じぐらい保健婦自身のことも重要であることを念頭に置きながら考える必要性がある。この地域と保健婦の関係性が交わるところにこそ、保健婦の真骨頂が見られるではないだろうか。
ちょっと長くなりましたが、先の保健婦をどう見るかという問題について自分なりに決着をつけてみました。まぁ、これは何かを参照して出した答えではなく、私なりの知識の中でどのような方法が民俗学としてありうるかそういうのを考えた結果です。
2012年12月1日土曜日
保健婦をどうみるかということ。
おはようございます。朝から小難しいことをやっています。といっても、これが頭のトレーニング的なもので、アイドリング的な何かだと思っていますのでご容赦ください。
えっと、以前「保健婦と民俗学」のことを触れておりました折に、私は保健婦を職業として見るのではなく、人間として見るべきであることを主張させていただきました。今もその主張は変わらないのですが、その件について若干考察を加えてみたいと思います。
なぜこんな重箱の隅をつつくような考察をするかというと、民俗学では保健婦という言葉自体が概念を持って定義されているものではございません。この職業性というものも全体を把握できるまでは至っていないのです。そもそも、私たち一般のイメージにしても、保健婦というのは保健所勤めの方であったり、公衆衛生の専門家だったりと職業方面で何事も決めてしまう帰来があります。別にそれはまちがったことではありませんし、見知らぬ人を判断する時彼らの仕事から彼らの人柄を探るべきであり、それをもって他人を他人として見つめるのですから。ちょっと哲学チックになりましたが、要するにですね、保健婦というものを私たちは、その職能でもって判断し、彼らの活動を規定してしまっていないかと思うのです。なぜこれを「しまっている」と申し上げているのかというと、保健婦の活動というのは、これは戦後しばらくとか戦前もそうなのですが、地域に出て地域で住民と接しながら試行錯誤しながら行っていました。また、全くの無医村地域に出向くこともあり、そこには「保健婦」っということに触れたことがない方が大勢おられるのですから、そもそも職能云々の話にもならなかったりします。そうなると、保健婦の活動をそのまま職能だけにしてしまったら、これは地域での活動の一場面をかなり狭めて考えてしまっていないのだろうかと思うわけです。例えば、母子保健活動一つをとっても、出産の介助、産婦のケア、育児相談という助産資格をもつ彼女らからすればその専門性にかなったことをしていますが、それと同時に妊娠に関する相談ごと、それ以前の交際に関すること、家庭のことなどなど単に出産という場面だけでなく、もっと包括的に出産を取り巻く生活面において彼女らが果たした役割も大きいのです。だから、彼女らを母子保健の専門家としてみるのは彼女らの一部分しか見ていないことにもならないかともうわけです。また、違った見方をするならば、生活全体を通じて出産とかの部分を切り出して、そこに保健婦をはめ込むという作業は、どことなく不揃いなパズルのピースのようであり、前後関係とかそのほかのことをあまり考慮に入れていないのではないかとも思ったりします。つまり、生活全体の連続性のなかで彼女らを再確認すべきではないかと考えるわけです。
おっと、突っ込んだ話に突然なってしまいましたが、そういうわけで保健婦の職能に関する見方というのをどう考えていくかというのが焦点になってきます。
保健婦の職能については専門誌である『保健婦雑誌』や『生活教育』でたびたび取り上げられていますが、ただ記事内部でも「保健婦手記」など実務をうたった場合、保健婦の活動はいわゆる公衆衛生の専門としての部分はもちろんではあるけど、それよりも雑多な村人との関係をにおわす話が多いように感じます。雑誌のほかの記事においては、保健婦はこうならなければならない、理想的な保健婦の専門性はこうだというように高らかにうたっているにもかかわらず、それが「保健婦手記」になるとその実際の部分では、村人との良好な関係性を築く意味でも、単なる臨床屋みたいなことばかりをやっているわけにはいかなくなるというのです。民生委員の仕事をしたり、役場の連絡係をしたりなどなど、その職能に当たらないことも含めて彼らの「仕事」となっているのです。「仕事」と書くと、いかにも専門性をもった感じに受けるかもしれませんけど、どちらかというと使命感のような漠然とした目標として考えてください。
じゃあ、保健婦の活動は職能でなければなんなのかということなのですが、先にも示した通り人間関係の構築という部分、構築というよりも補強という部分で、より人間らしい一面性を含めた能力というものもあるのではないかと思います。よく保健婦を女性としてとらえる場合もあるでしょうが、この場合ちょっとそれは別の議論になるので置いておきます。女性である前に、一個人として、一人間として彼女らは住民と接していることが言えます。人の日常に入るということは、単なる臨床や検診の専門としていては、どこまでも入って行けず、深く関係を築き、彼らをサポート出来やしない。その中で、保健婦がとったのは、医師や看護婦や助産婦にはない、日常的な付き合いとして活動であったのではないかと思うのです。言葉はどうかわかりませんが、なんでも屋といえばいいのでしょうかね。そういう感じです。村の人々にとっては、医師も看護婦も助産婦も保健婦も区別はつかないのでしょうが、しかしながら保健婦は民生委員などとのつながりもあったりして、その立場的にたんなる医療従事者としのそれではないのです。そういったことを念頭に置いて、保健婦の実際をみていくべきではないかと思うわけです。
多分、これまでの民俗学でもし仮に「保健婦」を扱うものがあったとするならば、それはその職業として彼女らが「いた」ことを証明することはできても、彼女らが村人と接しながら「いる」ことを観察してはいなかったのではないでしょうか。保健婦をその専門職としてのみ扱い、村人との関係性からは論じない。そういった風潮があるように思います。これは別段保健婦を特別視しているわけではないのですが、医師や看護婦、助産婦についてもそうです。彼らの日常的な取り組みについてはどうであったのかという部分に関する考察というか視線というものは、私見の限り研究がないのです。研究がないというのはどうしてなのか。それは一つに、保健婦などを村から切り離して考えているからではないでしょうか。「外部者」として扱うみたいに。村の一員ではなく、村の外から来た人としての視点で見られ、影響は与えてもそれは一時的なものであり、村の連続した生活の中ではさほど重要なことでもないと考えられてきたのではないでしょうか。しかしながら、それは誤解で、保健婦も含め医療従事者はどこまでも「外部者」ではなく、どこからか「内部者」として村のうちにあることを十分考察しなければならないと思うのです。確かに、保健婦がいなかった地域に、ぽんっと保健婦が現れた場合、最初は「外部者」としてそれをみる場合はあるかもしれませんが、保健婦の活動は日常の些細なことも含めて生活にダイレクトにかかわっていることもあり、その接触期間というのは医師や看護婦の比ではなく、それこそ連続性の中で位置付けられるものであると思います。「外部者」という線引きで語られるほど、保健婦は単純ではないということを申し上げたいですね。
以上、保健婦の見方について少しばかり論じてみました。まだこれでも十分議論できたとは思えませんけどね。最後に、私の意見はこうです。保健婦の見方というのは単に一面性でとられてはダメだということです。
えっと、以前「保健婦と民俗学」のことを触れておりました折に、私は保健婦を職業として見るのではなく、人間として見るべきであることを主張させていただきました。今もその主張は変わらないのですが、その件について若干考察を加えてみたいと思います。
なぜこんな重箱の隅をつつくような考察をするかというと、民俗学では保健婦という言葉自体が概念を持って定義されているものではございません。この職業性というものも全体を把握できるまでは至っていないのです。そもそも、私たち一般のイメージにしても、保健婦というのは保健所勤めの方であったり、公衆衛生の専門家だったりと職業方面で何事も決めてしまう帰来があります。別にそれはまちがったことではありませんし、見知らぬ人を判断する時彼らの仕事から彼らの人柄を探るべきであり、それをもって他人を他人として見つめるのですから。ちょっと哲学チックになりましたが、要するにですね、保健婦というものを私たちは、その職能でもって判断し、彼らの活動を規定してしまっていないかと思うのです。なぜこれを「しまっている」と申し上げているのかというと、保健婦の活動というのは、これは戦後しばらくとか戦前もそうなのですが、地域に出て地域で住民と接しながら試行錯誤しながら行っていました。また、全くの無医村地域に出向くこともあり、そこには「保健婦」っということに触れたことがない方が大勢おられるのですから、そもそも職能云々の話にもならなかったりします。そうなると、保健婦の活動をそのまま職能だけにしてしまったら、これは地域での活動の一場面をかなり狭めて考えてしまっていないのだろうかと思うわけです。例えば、母子保健活動一つをとっても、出産の介助、産婦のケア、育児相談という助産資格をもつ彼女らからすればその専門性にかなったことをしていますが、それと同時に妊娠に関する相談ごと、それ以前の交際に関すること、家庭のことなどなど単に出産という場面だけでなく、もっと包括的に出産を取り巻く生活面において彼女らが果たした役割も大きいのです。だから、彼女らを母子保健の専門家としてみるのは彼女らの一部分しか見ていないことにもならないかともうわけです。また、違った見方をするならば、生活全体を通じて出産とかの部分を切り出して、そこに保健婦をはめ込むという作業は、どことなく不揃いなパズルのピースのようであり、前後関係とかそのほかのことをあまり考慮に入れていないのではないかとも思ったりします。つまり、生活全体の連続性のなかで彼女らを再確認すべきではないかと考えるわけです。
おっと、突っ込んだ話に突然なってしまいましたが、そういうわけで保健婦の職能に関する見方というのをどう考えていくかというのが焦点になってきます。
保健婦の職能については専門誌である『保健婦雑誌』や『生活教育』でたびたび取り上げられていますが、ただ記事内部でも「保健婦手記」など実務をうたった場合、保健婦の活動はいわゆる公衆衛生の専門としての部分はもちろんではあるけど、それよりも雑多な村人との関係をにおわす話が多いように感じます。雑誌のほかの記事においては、保健婦はこうならなければならない、理想的な保健婦の専門性はこうだというように高らかにうたっているにもかかわらず、それが「保健婦手記」になるとその実際の部分では、村人との良好な関係性を築く意味でも、単なる臨床屋みたいなことばかりをやっているわけにはいかなくなるというのです。民生委員の仕事をしたり、役場の連絡係をしたりなどなど、その職能に当たらないことも含めて彼らの「仕事」となっているのです。「仕事」と書くと、いかにも専門性をもった感じに受けるかもしれませんけど、どちらかというと使命感のような漠然とした目標として考えてください。
じゃあ、保健婦の活動は職能でなければなんなのかということなのですが、先にも示した通り人間関係の構築という部分、構築というよりも補強という部分で、より人間らしい一面性を含めた能力というものもあるのではないかと思います。よく保健婦を女性としてとらえる場合もあるでしょうが、この場合ちょっとそれは別の議論になるので置いておきます。女性である前に、一個人として、一人間として彼女らは住民と接していることが言えます。人の日常に入るということは、単なる臨床や検診の専門としていては、どこまでも入って行けず、深く関係を築き、彼らをサポート出来やしない。その中で、保健婦がとったのは、医師や看護婦や助産婦にはない、日常的な付き合いとして活動であったのではないかと思うのです。言葉はどうかわかりませんが、なんでも屋といえばいいのでしょうかね。そういう感じです。村の人々にとっては、医師も看護婦も助産婦も保健婦も区別はつかないのでしょうが、しかしながら保健婦は民生委員などとのつながりもあったりして、その立場的にたんなる医療従事者としのそれではないのです。そういったことを念頭に置いて、保健婦の実際をみていくべきではないかと思うわけです。
多分、これまでの民俗学でもし仮に「保健婦」を扱うものがあったとするならば、それはその職業として彼女らが「いた」ことを証明することはできても、彼女らが村人と接しながら「いる」ことを観察してはいなかったのではないでしょうか。保健婦をその専門職としてのみ扱い、村人との関係性からは論じない。そういった風潮があるように思います。これは別段保健婦を特別視しているわけではないのですが、医師や看護婦、助産婦についてもそうです。彼らの日常的な取り組みについてはどうであったのかという部分に関する考察というか視線というものは、私見の限り研究がないのです。研究がないというのはどうしてなのか。それは一つに、保健婦などを村から切り離して考えているからではないでしょうか。「外部者」として扱うみたいに。村の一員ではなく、村の外から来た人としての視点で見られ、影響は与えてもそれは一時的なものであり、村の連続した生活の中ではさほど重要なことでもないと考えられてきたのではないでしょうか。しかしながら、それは誤解で、保健婦も含め医療従事者はどこまでも「外部者」ではなく、どこからか「内部者」として村のうちにあることを十分考察しなければならないと思うのです。確かに、保健婦がいなかった地域に、ぽんっと保健婦が現れた場合、最初は「外部者」としてそれをみる場合はあるかもしれませんが、保健婦の活動は日常の些細なことも含めて生活にダイレクトにかかわっていることもあり、その接触期間というのは医師や看護婦の比ではなく、それこそ連続性の中で位置付けられるものであると思います。「外部者」という線引きで語られるほど、保健婦は単純ではないということを申し上げたいですね。
以上、保健婦の見方について少しばかり論じてみました。まだこれでも十分議論できたとは思えませんけどね。最後に、私の意見はこうです。保健婦の見方というのは単に一面性でとられてはダメだということです。
2012年11月30日金曜日
書評:木村哲也『駐在保健婦の時代1942‐1997』(その1)
おはようございます。朝から結構ハードなことをしようかと思います。といいましても、そんな大層なものではなく、気になったことをメモにまとめるようにして書評を書いてみようかと思ったまでです。もしかしたら、研究者にとっては物足りない感があるのかもしれませんが、それはご容赦ください。民俗学でもあまりこうした研究というのはまだないので、手探りなのです。
さて、本日書評をさせていただくのは、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代1942-1997』という医学書院から2012年に発刊されたものです。保健婦の歩んできた歴史がわかる一冊となっています。これまで、こうしたまとまった歴史の書物というのは、医学史の中では取り上げられてきましたが、保健婦というくくりの中での研究は少なく、また戦後の保健婦の駐在制について言及したものというのはほとんどありません。どこか一文で触れる程度の扱いでしたから。で、ちょっと出てしまいましたが、木村氏の著書の特徴は、保健婦のなかでも駐在保健婦という、戦後において無医村などに駐在して活動を行っていた保健婦を中心に描いていることです。
目次については以下の通りです。
はじめに
第一章 総力戦と県保健婦の市町村駐在
第一節 近代日本における公衆衛生政策の外観
第二節 総力戦と県保健婦の市町村駐在
第三節 戦時高知県における保健婦駐在活動の実態
第二章 戦後改革と保健婦駐在制の継承
第一節 GHQ/PHWによる公衆衛生制度改革の特徴と問題点
第二節 高知県における保健婦駐在制の継承
一 四国軍政部看護指導官・ワーターワースの指導
二 高知県衛生部長・聖成稔の構想
三 高知県衛生部看護係・上村聖恵の役割
第三章 保健婦駐在制の概況 高知県駐在保健婦経験者の聞き書きから(その一)
第一節 聞き書きした保健婦の略歴
第二節 中村保健所の沿革、管内の状況
第三節 駐在所
第四節 交通手段
第五節 指導体制
第六節 業務計画
第七節 家族管理カード
第四章 保健婦駐在活動の展開 高知県駐在保健婦経験者の聞き書きから(その二)
第一節 結核
一 家庭訪問指導
二 集団検診と予防接種
三 隔離療養室の無料貸与制度
第二節 母子衛生
一 助産の介助
二 障害児への取り組み
三 授乳や子育ての指導
四 出産状況をめぐる変化
第三節 受胎調節指導
第四節 性病
第五節 急性伝染病
第六節 寄生虫
第七節 ハンセン病
一 暮らしのなかのハンセン病
二 隔離の現場で
三 社会復帰・里帰りを見守る
第八節 精神衛生
一 私宅監置の禁止
二 精神衛生法改正以後
三 施設入所から地域でのケアへ
第九節 成人病
一 栄養改善指導
二 リハビリ教室
三 健康体操
第十節 小括
第五章 沖縄における公看駐在制 保健婦駐在制の関係史(その一)
第一節 沖縄戦と保健婦
一 保健婦駐在の実態
二 指導者たち
第二節 米軍占領と公看駐在制―保健婦から公看へ
第三節 公看駐在活動の展開
第四節 日本復帰と駐在制存続問題
一 高知県との交流
二 日本復帰と駐在制存続問題
第六章 青森県における保健婦派遣制 保健婦駐在制の関係史(その二)
第一節 農村恐慌以降の保健活動
一 戦時における衛生環境
二 さまざまな保健活動
第二節 戦後改革と「公衆衛生の黄昏」
第三節 保健婦派遣制の実施
一 夏季保健活動
二 派遣制の実施
第四節 活動の成果とその評価
一 活動の成果
二 評価
第七章 「高知方式」の定着と全国への波及 保健婦駐在制の関係史(その三)
第一節 「高知方式」の定着
第二節 国民皆保険と無医地区問題
第三節 高度経済成長と無医地区対策
第四節 「保健婦美談」と駐在制批判
第八章 保健婦駐在制廃止をめぐる動向
第一節 地域保健法制定の経緯
第二節 各県の対応
第三節 保健婦経験者による駐在制廃止への思い
注
あとがき
となっています。結構長いのですが、いずれの章も隣接している問題ですので、一個いいっ子がばらばらなのではなく、一つのストーリー上に成り立っているので、読み応えがあります。
さて、全体的な流れといいますか、まずそこからまとめていきましょうかね。木村氏は祖母に駐在保健婦経験者を有しており、保健婦駐在制について調べるようになったとのこと。「はじめに」でも描かれているのですが、「日本の公衆衛生の戦時・戦後史を、その実質的な担い手であった保健婦に焦点を当てて」、「保健婦活動の一形態である保健婦駐在制を題材とし、その中心的役割を担ってきた高知県の実践を中心に、制度実施の経緯、各地への波及、地域のける駐在保健婦による活動の実態を、一九四二年の制度実施から一九九七年の制度廃止までを通して、歴史学の方法を持って明らかにした」ものとのことです。保健婦駐在制というのは、木村氏によると「本来保健所内に拠点を置いて活動するのが一般的である保健婦が、管内各地に駐在し、保健所長の指示の下、日常的に住民の衛生管理をおこなう携帯を」指すといいます。一般的に保健婦というと保健所で働く人、現在は保健師となっていますが、そういう風なイメージをもたれると思いますが、保健婦はその発足当時二つの潮流がありました。一つは、ご存知の通りの保健所内にいる保健婦。これは都道府県身分の保健所保健婦のことです。もう一つは、国民健康保険の関係で市町村身分の国保保健婦(のちに市町村保健婦へ)があります。駐在制はこの二つの命令系統を一本化し、地区分担をしながら業務を行います。保健所保健婦や国保保健婦が管内や地域内での業務を事業別にして担当するのに対し、駐在保健婦は地域の中に身を置いているためにすべての業務をやらなければならないところに違いがあります。この駐在制の導入は戦前にさかのぼり、一九四二年から健民健兵政策のもと、警察の駐在制に倣い設置されたものではありますが、敗戦を契機に公衆衛生政策も占領下で改革されて、この駐在制も見直しがされていきます。そのような中、一九四七年から唯一高知県で継承され、「高知市式」としてその後の保健婦活動の手本のようになっていきます。また、これと同時期に、沖縄県でも公衆看護婦制度が確立し、アメリカの指導のもと活動が行われて行きます。さらに、青森県でも僻地対策にと保健婦派遣制が独自に導入されて行きました。
ざっと、保健婦駐在制のことを木村氏の著書に即してまとめてみましたが、要するに地域に駐在しそこで活動を行った保健婦のことを指すということを念頭に置いていただきたいのと、この活動が戦時下の健民健兵によって出されたこと、さらにこの活動が戦後高知県に継承されてその後も生き続けたことを時代背景として持ってほしいのです。
さて、本書の研究史の外観といいますか……その前にこの研究をどのように位置づけるかについて木村氏は、三つの柱から研究を進めています。まずそれを紹介しようと思います。一、医療・公衆衛生史の再構築、二、総力戦体制・戦後改革研究、三、地域研究といった中で駐在保健婦の問題をおいています。詳しくは本書を読んでいただいた方がわかるのですが、簡単に言うと、①これまでの医療・公衆衛生を扱った歴史の潮流は、「近代的価値の進歩の過程として描かれる」ものと「逆に近代批判の文脈で、「権力」として批判的に描かれた」ものとがあり、木村氏は二項対立ではなく、国家と国民のはざまに立つ存在として保健婦に注目し、新たな医療・公衆衛生史を考える。②保健婦駐在制が戦後から始まったとする先行研究が多い中、木村氏は実際は戦時中に生まれた制度を戦後になって地域の事情から継承しているとし、その連続性の中で保健婦駐在制を語る③単に国の政策が地域にあるのではなく、地域同士の連携において保健婦駐在制はどうであったのかということを、沖縄県や青森県の事例を通じてみていく。という視点からおっています。
用いる資料については、これまで「雑多」なものとして扱われてきた、雑誌類(特に『保健婦雑誌』)してそこから読みとれる駐在制の実態について分析しています。また、民俗学で用いられる聞き取り方法も取りいれ、駐在保健婦経験者からのインタビューを合わせて記述しています。木村氏はこうした方法論について、「本書で扱う駐在保健婦は、決して「国家指導者」でも「底辺民衆」でもない。むしろそのはざまに立つところに固有の活動領域があるのであり、これまであまり明らかにされてこなかった子、こうした対象への接近方法として、聞き書きという方法は有効であろう」と唱えている。また、これは同館で私もこのことついて強く主張しておきたいのですが、助産婦や看護婦もある意味保健婦と同様の活動を行っていることは、数多くの研究からなされています。但し、助産婦も看護婦も決まった臨床の場でしか活動することがなく、保健婦はそれと違って、「より日常的に密着した且つ度の場を持って」いて、それをみつめることこそ、今まで注目されてこなかった領域での実践を明らかにできるではないだろうかと述べています。将にその通りでしょうね。「より日常的に」あるあたりに、単なる医療史とか制度史としてのそれではなく、保健婦の人間史的な部分があるのだと私は思っています。
あと、木村氏は「実際に地域で衛生指導に当たった人々の意識や行動が、地域住民の生活の改編とどうからみあっていたのか、その実態を十分に明らかに」したいと述べて聞き取り調査の有効性、保健婦経験者が語る歴史の重要性を述べています。これは、保健婦の柔軟性という部分にかかわってくるのでしょうが、私も聞き取り調査で分かったのですが、保健婦は国家からの命令をそのまま流用するようなことはあまりしていません。その地域に合った、その住民に合った形での最善策として指導を行っていますし、そこに感情や意識があり、地域住民との関わりがあり、それで生活を見つめていたことがわかっています。その点において、意識や行動がどう生活の改変にかかわってきたのかを見つめることは、大変意義のあることなのです。これは歴史学だけではなく、隣接する民俗学においてもそうだと思います。
さて本論に入りますが、あまりに長々としてしまったためか、退屈になると思いますので、一度ここで区切っておこうと思います。(つづく)
さて、本日書評をさせていただくのは、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代1942-1997』という医学書院から2012年に発刊されたものです。保健婦の歩んできた歴史がわかる一冊となっています。これまで、こうしたまとまった歴史の書物というのは、医学史の中では取り上げられてきましたが、保健婦というくくりの中での研究は少なく、また戦後の保健婦の駐在制について言及したものというのはほとんどありません。どこか一文で触れる程度の扱いでしたから。で、ちょっと出てしまいましたが、木村氏の著書の特徴は、保健婦のなかでも駐在保健婦という、戦後において無医村などに駐在して活動を行っていた保健婦を中心に描いていることです。
目次については以下の通りです。
はじめに
第一章 総力戦と県保健婦の市町村駐在
第一節 近代日本における公衆衛生政策の外観
第二節 総力戦と県保健婦の市町村駐在
第三節 戦時高知県における保健婦駐在活動の実態
第二章 戦後改革と保健婦駐在制の継承
第一節 GHQ/PHWによる公衆衛生制度改革の特徴と問題点
第二節 高知県における保健婦駐在制の継承
一 四国軍政部看護指導官・ワーターワースの指導
二 高知県衛生部長・聖成稔の構想
三 高知県衛生部看護係・上村聖恵の役割
第三章 保健婦駐在制の概況 高知県駐在保健婦経験者の聞き書きから(その一)
第一節 聞き書きした保健婦の略歴
第二節 中村保健所の沿革、管内の状況
第三節 駐在所
第四節 交通手段
第五節 指導体制
第六節 業務計画
第七節 家族管理カード
第四章 保健婦駐在活動の展開 高知県駐在保健婦経験者の聞き書きから(その二)
第一節 結核
一 家庭訪問指導
二 集団検診と予防接種
三 隔離療養室の無料貸与制度
第二節 母子衛生
一 助産の介助
二 障害児への取り組み
三 授乳や子育ての指導
四 出産状況をめぐる変化
第三節 受胎調節指導
第四節 性病
第五節 急性伝染病
第六節 寄生虫
第七節 ハンセン病
一 暮らしのなかのハンセン病
二 隔離の現場で
三 社会復帰・里帰りを見守る
第八節 精神衛生
一 私宅監置の禁止
二 精神衛生法改正以後
三 施設入所から地域でのケアへ
第九節 成人病
一 栄養改善指導
二 リハビリ教室
三 健康体操
第十節 小括
第五章 沖縄における公看駐在制 保健婦駐在制の関係史(その一)
第一節 沖縄戦と保健婦
一 保健婦駐在の実態
二 指導者たち
第二節 米軍占領と公看駐在制―保健婦から公看へ
第三節 公看駐在活動の展開
第四節 日本復帰と駐在制存続問題
一 高知県との交流
二 日本復帰と駐在制存続問題
第六章 青森県における保健婦派遣制 保健婦駐在制の関係史(その二)
第一節 農村恐慌以降の保健活動
一 戦時における衛生環境
二 さまざまな保健活動
第二節 戦後改革と「公衆衛生の黄昏」
第三節 保健婦派遣制の実施
一 夏季保健活動
二 派遣制の実施
第四節 活動の成果とその評価
一 活動の成果
二 評価
第七章 「高知方式」の定着と全国への波及 保健婦駐在制の関係史(その三)
第一節 「高知方式」の定着
第二節 国民皆保険と無医地区問題
第三節 高度経済成長と無医地区対策
第四節 「保健婦美談」と駐在制批判
第八章 保健婦駐在制廃止をめぐる動向
第一節 地域保健法制定の経緯
第二節 各県の対応
第三節 保健婦経験者による駐在制廃止への思い
注
あとがき
となっています。結構長いのですが、いずれの章も隣接している問題ですので、一個いいっ子がばらばらなのではなく、一つのストーリー上に成り立っているので、読み応えがあります。
さて、全体的な流れといいますか、まずそこからまとめていきましょうかね。木村氏は祖母に駐在保健婦経験者を有しており、保健婦駐在制について調べるようになったとのこと。「はじめに」でも描かれているのですが、「日本の公衆衛生の戦時・戦後史を、その実質的な担い手であった保健婦に焦点を当てて」、「保健婦活動の一形態である保健婦駐在制を題材とし、その中心的役割を担ってきた高知県の実践を中心に、制度実施の経緯、各地への波及、地域のける駐在保健婦による活動の実態を、一九四二年の制度実施から一九九七年の制度廃止までを通して、歴史学の方法を持って明らかにした」ものとのことです。保健婦駐在制というのは、木村氏によると「本来保健所内に拠点を置いて活動するのが一般的である保健婦が、管内各地に駐在し、保健所長の指示の下、日常的に住民の衛生管理をおこなう携帯を」指すといいます。一般的に保健婦というと保健所で働く人、現在は保健師となっていますが、そういう風なイメージをもたれると思いますが、保健婦はその発足当時二つの潮流がありました。一つは、ご存知の通りの保健所内にいる保健婦。これは都道府県身分の保健所保健婦のことです。もう一つは、国民健康保険の関係で市町村身分の国保保健婦(のちに市町村保健婦へ)があります。駐在制はこの二つの命令系統を一本化し、地区分担をしながら業務を行います。保健所保健婦や国保保健婦が管内や地域内での業務を事業別にして担当するのに対し、駐在保健婦は地域の中に身を置いているためにすべての業務をやらなければならないところに違いがあります。この駐在制の導入は戦前にさかのぼり、一九四二年から健民健兵政策のもと、警察の駐在制に倣い設置されたものではありますが、敗戦を契機に公衆衛生政策も占領下で改革されて、この駐在制も見直しがされていきます。そのような中、一九四七年から唯一高知県で継承され、「高知市式」としてその後の保健婦活動の手本のようになっていきます。また、これと同時期に、沖縄県でも公衆看護婦制度が確立し、アメリカの指導のもと活動が行われて行きます。さらに、青森県でも僻地対策にと保健婦派遣制が独自に導入されて行きました。
ざっと、保健婦駐在制のことを木村氏の著書に即してまとめてみましたが、要するに地域に駐在しそこで活動を行った保健婦のことを指すということを念頭に置いていただきたいのと、この活動が戦時下の健民健兵によって出されたこと、さらにこの活動が戦後高知県に継承されてその後も生き続けたことを時代背景として持ってほしいのです。
さて、本書の研究史の外観といいますか……その前にこの研究をどのように位置づけるかについて木村氏は、三つの柱から研究を進めています。まずそれを紹介しようと思います。一、医療・公衆衛生史の再構築、二、総力戦体制・戦後改革研究、三、地域研究といった中で駐在保健婦の問題をおいています。詳しくは本書を読んでいただいた方がわかるのですが、簡単に言うと、①これまでの医療・公衆衛生を扱った歴史の潮流は、「近代的価値の進歩の過程として描かれる」ものと「逆に近代批判の文脈で、「権力」として批判的に描かれた」ものとがあり、木村氏は二項対立ではなく、国家と国民のはざまに立つ存在として保健婦に注目し、新たな医療・公衆衛生史を考える。②保健婦駐在制が戦後から始まったとする先行研究が多い中、木村氏は実際は戦時中に生まれた制度を戦後になって地域の事情から継承しているとし、その連続性の中で保健婦駐在制を語る③単に国の政策が地域にあるのではなく、地域同士の連携において保健婦駐在制はどうであったのかということを、沖縄県や青森県の事例を通じてみていく。という視点からおっています。
用いる資料については、これまで「雑多」なものとして扱われてきた、雑誌類(特に『保健婦雑誌』)してそこから読みとれる駐在制の実態について分析しています。また、民俗学で用いられる聞き取り方法も取りいれ、駐在保健婦経験者からのインタビューを合わせて記述しています。木村氏はこうした方法論について、「本書で扱う駐在保健婦は、決して「国家指導者」でも「底辺民衆」でもない。むしろそのはざまに立つところに固有の活動領域があるのであり、これまであまり明らかにされてこなかった子、こうした対象への接近方法として、聞き書きという方法は有効であろう」と唱えている。また、これは同館で私もこのことついて強く主張しておきたいのですが、助産婦や看護婦もある意味保健婦と同様の活動を行っていることは、数多くの研究からなされています。但し、助産婦も看護婦も決まった臨床の場でしか活動することがなく、保健婦はそれと違って、「より日常的に密着した且つ度の場を持って」いて、それをみつめることこそ、今まで注目されてこなかった領域での実践を明らかにできるではないだろうかと述べています。将にその通りでしょうね。「より日常的に」あるあたりに、単なる医療史とか制度史としてのそれではなく、保健婦の人間史的な部分があるのだと私は思っています。
あと、木村氏は「実際に地域で衛生指導に当たった人々の意識や行動が、地域住民の生活の改編とどうからみあっていたのか、その実態を十分に明らかに」したいと述べて聞き取り調査の有効性、保健婦経験者が語る歴史の重要性を述べています。これは、保健婦の柔軟性という部分にかかわってくるのでしょうが、私も聞き取り調査で分かったのですが、保健婦は国家からの命令をそのまま流用するようなことはあまりしていません。その地域に合った、その住民に合った形での最善策として指導を行っていますし、そこに感情や意識があり、地域住民との関わりがあり、それで生活を見つめていたことがわかっています。その点において、意識や行動がどう生活の改変にかかわってきたのかを見つめることは、大変意義のあることなのです。これは歴史学だけではなく、隣接する民俗学においてもそうだと思います。
さて本論に入りますが、あまりに長々としてしまったためか、退屈になると思いますので、一度ここで区切っておこうと思います。(つづく)
2012年11月26日月曜日
民俗学で保健婦を考えるということ。
朝から失礼しますね。保健婦活動について、『生活教育』の「保健婦手記」や、出版されている保健婦に関する記録類をみていて少し思ったこと。
保健婦という職業は、医学的、衛生学的な視点からの生活指導を主たる目的にはしているが、実際地域での活動をみてみると、単にそれだけではなく、生活学的、教育学的な視点からの生活に根差した指導も行っている。また、指導といっても上から下への命令的な指導ではなく、地域の事情を踏まえ、その上での活動を展開している。つまり、地域住民にとって近しい関係にあり、それでいて専門性を有していることになる。さらに加えるならば、保健婦はその職業としてのそれだけにあたるのでは、地域住民との信頼関係を築けないため、同じ目線に立って考えることをしている。いうなれば、職業としての「保健婦」ではなく、もっと人間性としての「保健婦」がそこにあるのではないかと思う。
保健婦に関する民俗学での研究は、直接的なものとしてはあまりなく、近年出版された木村哲也氏の『駐在保健婦の時代』が最新のものであろう。木村氏は、著書の中で高知県の駐在保健婦について触れ、彼女らの活動がどのように展開し、どう位置付けられていったのかという部分について詳しく論じられており、これまであまりみられなかった保健婦の総体としてどのような経緯を戦前戦中戦後とたどってきたのかを明らかいにしている。保健婦というものがどのようなものであるのか、はたまたそれがどのように歴史的に位置付けられるのかという点において、木村氏の著書は素晴らしい内容である。木村氏のほかに、このような保健婦を扱う研究は今のところない。助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、出産の場にしても保健婦の存在というのはかなり大きい位置を占めている。母子保健に関わる活動には、助産婦だけでなく看護婦、そして保健婦も深くかかわりを持っている。つまり、出産一つにとっても保健婦の位置付けというのはかなり大きいはずだ。にもかかわらず、これまで民俗学では保健婦ということにつて触れてこなかった。これはどういった意味があるのだろうか。現時点ではあまり資料がなく、どういう意図でこれを避けてきたのかはわかっていない。産婆や助産婦の役割が前面に出て、保健婦の活動についてはあまり表だって出てこないのではないだろうか。但し、こうしたことは誤りであって、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。このことを思えば、助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。このことを今一度見直す必要性があるのではないか。また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、身の上相談的なものもこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。彼女らを地域の中でとらえることは、地域生活の機微をとらえることにもつながるし、保健婦と住民との関係性をみるなかで、生活変化の考え方の一過程をみることができる。つまり、保健婦という存在は地域の民俗において、多大な影響を持っており、その活動の隅々をみることにより、地域生活の変遷過程を細かく見ていくことができるのではないかと思うのである。
民俗学での保健婦の取り扱いについて述べてみたが、これは試論であり、まだまだ分析する部分は多いと思う。生活の部分だけではない。保健婦が及ぼしたのは精神的な部分においてもそうである。健康観や死生観などそうした生活を規定しうるものにさえ、彼女らの影響がみられる。分析の仕方、研究の切り口でいえばまだまだ未開拓地である。このことを踏まえ、民俗学における保健婦の位置付けを今後も考えていきたい。
また、これは私の持論ではあるが、保健婦の活動をとらえることを、単にその職業性をもって、専門性を持ってとらえようとは思わない。どちらかというと彼女らが、地域住民と具体的にどう接し、どういう感情を用いたのかという人間性という部分において、彼女らの活動をみていくことにしたい。というのも、助産婦にしろ産婆にしろ、その専門家的な位置づけがされてはいるものの、彼女らが地域でその専門性以外にどう付き合ってきたのかということはこれまでの研究で明らかにされていない。保健婦も同じくその方面が強い。そうした意味においても、彼女らの住民との接し方をもう少し具体的に見つめ、単に活動を追うのではなく、彼女らの人間としての動きを立体的にとらえ、それを地域社会でどう位置付けるのかを問うてみたい。
具体的にどのような方法論で行うのか、どのような資料を持って述べていくのかについてだが、私はこれまで述べてきたように『生活教育』にあるような「保健婦手記」での記述を、その資料として用いたいと考える。『生活教育』で述べられる「保健婦手記」は、保健婦の経験を内外的に示す役割を担っていた。この投稿をみていく中で、保健婦がどのような苦境に立たされ、そのたびにどういう判断をし、どう切り抜けていったのかというような事の顛末が記されている。この記述には、単に活動の内容だけでなく、保健婦がどのように地域住民と接し話していたのか、また地域住民がどのようにそれに応答していたのかといった具体的な経緯を知ることが可能である。つまり、「保健婦手記」をみることにより、保健婦の内面、そして地域での受容をみていくことにもつながるのである。但し、問題はある。『生活教育』という雑誌は「保健婦手記」に対して、その選考過程において文章的表現力を指導し、巧みにその記述を操作しようとしている部分が否めない。つまるところ、この文章が実際の活動であったのかという部分においては疑問が残る。保健婦がどのような過程からこの手記を描くのかという部分についても分析が必要であるし、どういう選考基準になっていたのかということも念頭に置くべきだろう。しかしながら、こうした問題点はあるにしろ、「保健婦手記」は保健婦の内情を知る上で必要不可欠な資料であり、これを読み解くことは民俗学的にも、地域の生活の変化を知りえる上で重要なことであろう。今のところ、方法論というのについては、比較をとるべきか地域の中での歴史的変遷をとるべきか悩む部分ではあるが、私は少なくとも比較するべきものではないと思っている。その保健婦個人個人が地域で行き当たった問題というのは、同じケースであってもそれは見方が異なるし、保健婦の経験知からしてもやはり違った見方があって当然である。そのような場合、比較をしたところでそれは何の意味があるのだろうか。地域比較をしたところで、どういったデータをとれるというのだろうか。それは全く保健婦の人間性とか地域での根差し方とかを無視した論になりかねない。私は、そういった意味では地域の中で彼女らが果たした役割とその活動により変わりゆく生活を見つめる方が有意義ではないかと思う。その意味も、歴史的変遷をみていく方で方法論は考えてみたい。
以上のように、民俗学で保健婦を考えるということを書いてみたのであるが、この分析はまだまだ試行錯誤の段階であり、幅広く意見を聞きたい所存である。何か不明な点があればご指摘いただきたい。
保健婦という職業は、医学的、衛生学的な視点からの生活指導を主たる目的にはしているが、実際地域での活動をみてみると、単にそれだけではなく、生活学的、教育学的な視点からの生活に根差した指導も行っている。また、指導といっても上から下への命令的な指導ではなく、地域の事情を踏まえ、その上での活動を展開している。つまり、地域住民にとって近しい関係にあり、それでいて専門性を有していることになる。さらに加えるならば、保健婦はその職業としてのそれだけにあたるのでは、地域住民との信頼関係を築けないため、同じ目線に立って考えることをしている。いうなれば、職業としての「保健婦」ではなく、もっと人間性としての「保健婦」がそこにあるのではないかと思う。
保健婦に関する民俗学での研究は、直接的なものとしてはあまりなく、近年出版された木村哲也氏の『駐在保健婦の時代』が最新のものであろう。木村氏は、著書の中で高知県の駐在保健婦について触れ、彼女らの活動がどのように展開し、どう位置付けられていったのかという部分について詳しく論じられており、これまであまりみられなかった保健婦の総体としてどのような経緯を戦前戦中戦後とたどってきたのかを明らかいにしている。保健婦というものがどのようなものであるのか、はたまたそれがどのように歴史的に位置付けられるのかという点において、木村氏の著書は素晴らしい内容である。木村氏のほかに、このような保健婦を扱う研究は今のところない。助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、出産の場にしても保健婦の存在というのはかなり大きい位置を占めている。母子保健に関わる活動には、助産婦だけでなく看護婦、そして保健婦も深くかかわりを持っている。つまり、出産一つにとっても保健婦の位置付けというのはかなり大きいはずだ。にもかかわらず、これまで民俗学では保健婦ということにつて触れてこなかった。これはどういった意味があるのだろうか。現時点ではあまり資料がなく、どういう意図でこれを避けてきたのかはわかっていない。産婆や助産婦の役割が前面に出て、保健婦の活動についてはあまり表だって出てこないのではないだろうか。但し、こうしたことは誤りであって、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。このことを思えば、助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。このことを今一度見直す必要性があるのではないか。また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、身の上相談的なものもこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。彼女らを地域の中でとらえることは、地域生活の機微をとらえることにもつながるし、保健婦と住民との関係性をみるなかで、生活変化の考え方の一過程をみることができる。つまり、保健婦という存在は地域の民俗において、多大な影響を持っており、その活動の隅々をみることにより、地域生活の変遷過程を細かく見ていくことができるのではないかと思うのである。
民俗学での保健婦の取り扱いについて述べてみたが、これは試論であり、まだまだ分析する部分は多いと思う。生活の部分だけではない。保健婦が及ぼしたのは精神的な部分においてもそうである。健康観や死生観などそうした生活を規定しうるものにさえ、彼女らの影響がみられる。分析の仕方、研究の切り口でいえばまだまだ未開拓地である。このことを踏まえ、民俗学における保健婦の位置付けを今後も考えていきたい。
また、これは私の持論ではあるが、保健婦の活動をとらえることを、単にその職業性をもって、専門性を持ってとらえようとは思わない。どちらかというと彼女らが、地域住民と具体的にどう接し、どういう感情を用いたのかという人間性という部分において、彼女らの活動をみていくことにしたい。というのも、助産婦にしろ産婆にしろ、その専門家的な位置づけがされてはいるものの、彼女らが地域でその専門性以外にどう付き合ってきたのかということはこれまでの研究で明らかにされていない。保健婦も同じくその方面が強い。そうした意味においても、彼女らの住民との接し方をもう少し具体的に見つめ、単に活動を追うのではなく、彼女らの人間としての動きを立体的にとらえ、それを地域社会でどう位置付けるのかを問うてみたい。
具体的にどのような方法論で行うのか、どのような資料を持って述べていくのかについてだが、私はこれまで述べてきたように『生活教育』にあるような「保健婦手記」での記述を、その資料として用いたいと考える。『生活教育』で述べられる「保健婦手記」は、保健婦の経験を内外的に示す役割を担っていた。この投稿をみていく中で、保健婦がどのような苦境に立たされ、そのたびにどういう判断をし、どう切り抜けていったのかというような事の顛末が記されている。この記述には、単に活動の内容だけでなく、保健婦がどのように地域住民と接し話していたのか、また地域住民がどのようにそれに応答していたのかといった具体的な経緯を知ることが可能である。つまり、「保健婦手記」をみることにより、保健婦の内面、そして地域での受容をみていくことにもつながるのである。但し、問題はある。『生活教育』という雑誌は「保健婦手記」に対して、その選考過程において文章的表現力を指導し、巧みにその記述を操作しようとしている部分が否めない。つまるところ、この文章が実際の活動であったのかという部分においては疑問が残る。保健婦がどのような過程からこの手記を描くのかという部分についても分析が必要であるし、どういう選考基準になっていたのかということも念頭に置くべきだろう。しかしながら、こうした問題点はあるにしろ、「保健婦手記」は保健婦の内情を知る上で必要不可欠な資料であり、これを読み解くことは民俗学的にも、地域の生活の変化を知りえる上で重要なことであろう。今のところ、方法論というのについては、比較をとるべきか地域の中での歴史的変遷をとるべきか悩む部分ではあるが、私は少なくとも比較するべきものではないと思っている。その保健婦個人個人が地域で行き当たった問題というのは、同じケースであってもそれは見方が異なるし、保健婦の経験知からしてもやはり違った見方があって当然である。そのような場合、比較をしたところでそれは何の意味があるのだろうか。地域比較をしたところで、どういったデータをとれるというのだろうか。それは全く保健婦の人間性とか地域での根差し方とかを無視した論になりかねない。私は、そういった意味では地域の中で彼女らが果たした役割とその活動により変わりゆく生活を見つめる方が有意義ではないかと思う。その意味も、歴史的変遷をみていく方で方法論は考えてみたい。
以上のように、民俗学で保健婦を考えるということを書いてみたのであるが、この分析はまだまだ試行錯誤の段階であり、幅広く意見を聞きたい所存である。何か不明な点があればご指摘いただきたい。
2012年11月24日土曜日
『生活教育』の特性と「保健婦手記」
安曇野にてのメモ書き
保健婦資料館所蔵の『生活教育』を拝読し、一つ気になったこと。『生活教育』という雑誌において「保健婦手記」はどのういう記事として扱われていたのか。その当時、保健婦の読み物または参考書として出されていた『保健婦雑誌』は、記事の特性からして専門的、学術的なものに対し、『生活教育』はどこかしら、そういった学術的な記述というよりも、保健婦の心構えのようなものがその特性となっている。細部の記載については現時点で判断できないが、『保健婦雑誌』は技術、学術系とするならば、『生活教育』は保健婦の規律、規範を重んじる精神系のものではないだろうか。その中では特に目につく記事が「保健婦手記」である。これは読者である保健婦による投稿で成り立っており、日々の業務で感じたこと、経験して学んだこと、困ったことなど様々な記述がなされている。また、この記事は選考会が開かれており、多数の投書から選ばれたものだとわかる。その選考理由も編集委員の意見としてまとめられている。編集委員の中には丸岡秀子の名も見られ、あらためてこの記述が社会教育的な側面を有していることがわかる。さらに、本誌は投稿者と委員との対面形式だけをとらず、広く読者からの意見や声を合わせて記述されているあたり(「おたより」欄)に参画型の取り組みがなされていることが考えられる。「保健婦手記」に書かれた活動の内容や心情は単なる発言に留まるのではなく、本誌を介した共有性をもった内容であり、各道道府県で働く保健婦全体に訴えかけるものがある。先の選考にみられるように本誌は、保健婦の教養にも使われ、意図的に選考し表彰することで、各人に保健婦の理想や規律を促している。「保健婦手記」はそういった意味においては、日々仕事に精を出している保健婦への教養と励ましを与えるものであろう。
上記のメモ書きは、11月22日に安曇野で私がメモ書きしたものをうつしたものです。私が保健婦資料館で拝読した『生活教育』の「保健婦手記」欄をどうみるのかということを考えてみました。雑誌にどういった特性があり、その記事にはどういった意図が見られるのかという点です。
保健婦資料館所蔵の『生活教育』を拝読し、一つ気になったこと。『生活教育』という雑誌において「保健婦手記」はどのういう記事として扱われていたのか。その当時、保健婦の読み物または参考書として出されていた『保健婦雑誌』は、記事の特性からして専門的、学術的なものに対し、『生活教育』はどこかしら、そういった学術的な記述というよりも、保健婦の心構えのようなものがその特性となっている。細部の記載については現時点で判断できないが、『保健婦雑誌』は技術、学術系とするならば、『生活教育』は保健婦の規律、規範を重んじる精神系のものではないだろうか。その中では特に目につく記事が「保健婦手記」である。これは読者である保健婦による投稿で成り立っており、日々の業務で感じたこと、経験して学んだこと、困ったことなど様々な記述がなされている。また、この記事は選考会が開かれており、多数の投書から選ばれたものだとわかる。その選考理由も編集委員の意見としてまとめられている。編集委員の中には丸岡秀子の名も見られ、あらためてこの記述が社会教育的な側面を有していることがわかる。さらに、本誌は投稿者と委員との対面形式だけをとらず、広く読者からの意見や声を合わせて記述されているあたり(「おたより」欄)に参画型の取り組みがなされていることが考えられる。「保健婦手記」に書かれた活動の内容や心情は単なる発言に留まるのではなく、本誌を介した共有性をもった内容であり、各道道府県で働く保健婦全体に訴えかけるものがある。先の選考にみられるように本誌は、保健婦の教養にも使われ、意図的に選考し表彰することで、各人に保健婦の理想や規律を促している。「保健婦手記」はそういった意味においては、日々仕事に精を出している保健婦への教養と励ましを与えるものであろう。
上記のメモ書きは、11月22日に安曇野で私がメモ書きしたものをうつしたものです。私が保健婦資料館で拝読した『生活教育』の「保健婦手記」欄をどうみるのかということを考えてみました。雑誌にどういった特性があり、その記事にはどういった意図が見られるのかという点です。
保健婦資料館と保健婦資料
こんにちは。お久しぶりです。さてと、Twitterで私の発言をご覧の方はご存知だと思いますが、先日まで長野県安曇野市へ行ってまいりました。
風光明美なところで身体も心もリフレッシュしました。
なぜいきなり長野県安曇野市かというと、穂高に「保健婦資料館」という施設があり、そこには保健婦関連の資料がかなり豊富に取りそろえてあるということをTwitterで知り合った方から情報を頂いたからです。
これまでのブログの記述からわかるとおり、私は生活改善の中でも保健衛生活動、とりわけ保健婦の活動を取り上げて研究しておりました。しかしながら、研究しているとは言っても保健婦がどのような存在でどういう活動を主たるものとしていたのか、どういう風に地域に入って行ったのかというのを聞き取りでしか知らず、基本情報としての知識があまりに少なかったのです。そこで「保健婦資料館」のお話しをいただいたのでして、これを機に一から保健婦という存在について勉強してみようと思い、いろいろと資料を集めてみたいと思ったのです。
これまで、私自身フィールドで資料を追うことはあっても、本格的な資料調査というのをしてきたわけではなく、どういう資料がそこにあるのか、どういう調べ方ができるのか、またどういう資料を選んで研究すべきなのかということを結構悩んでいました。正直なところ私の保健婦のイメージは、村の中で臨床を取り扱ったりする専門家という位置付けでしかなく、私の論文でも彼女を取り扱うのはどうもその職業性のみで語ってきたきらいがあります。しかしながら、保健婦の語ることについてよくよく考えてみると、ただ単に臨床でやってきたわけではありません、公衆衛生の知識を広く村人たちに触れて回るのですから、彼らの生活の中に直接入っていくことをしなければ、うわべだけのその場しのぎの活動になってしまいます。私が、兵庫県宍粟郡(現宍粟市)でお話しを聞いたA保健婦は、こんなことを申されていたのを今でも覚えています。「衛生環境が悪いことを説明するのに、まず生活をみてからじゃないとわからない。家庭訪問の際は些細なことでも、訪問家庭の生活事情を記録し、それをもとにしてさまざまな(公衆衛生活動ないし、保健)活動をおこなった」という。つまり、保健婦は村の生活について理解をしなければならず、そのために家庭訪問を繰り返し行い、そのたびに衛生知識の普及に努めたというのです。保健婦はこうした村人の立場の中に身をおいてこそ実践が可能のあのであって、単に臨床の現場だけを抑えておかばいいというわけではないのです。
そうしたこれまでの調査でうすうす気づいていたものを少しずつ考えていくことがこのところの私の作業でした。そこで、はたと気づいたのです。保健婦というのを職業として、保健活動を業務としてみているのでは、民俗学の中で保健婦を取り扱うのはかなり無機質になってしまわないかと。要するに、活動の流れや地域での位置付けをするだけでは、民俗とのかかわりは描けないし、たとえ描いたとしてもそれは人間の営みのなかでの生活と活動との間に隔たりをもったものになってしまわないかと。そういう心配をしたのです。よくよく考えてみると、保健婦というのは先にも話した通り、村の中に身を置いて活動しているわけですから、生活に深く根ざしており、民俗にも多大に影響を与えていたのではないかと思ったのです。人々の生活意識において保健婦が与えた影響は民俗学としても無視できないのではないかなと思ったのです。そして、これが重要なことなのですが、単なる活動の記述として民俗学で保健婦を扱うのではなく、村人と保健婦がどういう風に接してきたのか、そこでどのような生活への取り組みが向けられていったのか、その時どういう感情があったのかということも含めて立体的に活動をとらえる必要性があるのではないかと。今までの私のやり方っていうのはそこらへんの立体感にかけていて、どこ無機質な記述になっていたのではないかなとおもったのです。
そこで、話は少し戻るのですが、保健婦資料の中に「保健婦手記」という保健婦の活動を記録したものがあります。この資料は、度々書籍として刊行されており、私もそれを何点か集めています。その中で重要なのは、彼女らがいかに活動したのかということと同じぐらいに、どのような思いでどういう風に接してきたのかという、業務にかかわる苦悩や喜びといった感情が描かれていることです。保健婦は専門家ではありますが、その前に一人の人間として職務に当たっています。つまりそこには人間らしい、その表情豊かな記述があるということなのです。そこで、今一度この資料類をみていくことで、どうにか保健婦活動を立体的に描けないものかと思ったのです。保健婦活動はなにも兵庫県だけが特別ではないし、日本各地で様々な活動が営まれ、各地の保健婦は創意工夫しながら村の中に身を置き活動しています。そのことをもう少し知りたかったというのが、私を「保健婦資料館」へいざなったと思うのです。
保健婦資料館で所蔵されている資料の中には、そうした手記類は多数あります。そうした記述を丹念に見ていき、そこから民俗学にアプローチしてみることもできるのではないかと思っています。私のアプローチ方針としては、「保健婦手記」や保健婦の証言から、村人の生活にどういう風にかかわり、どういう風に変えようとしたのか、またそこにはどのような葛藤があり、どういう賛同をえたのかといことを今一度民俗学の中で位置付けてみたいと思うのです。
これまでの研究が生活改善という言葉にゆらされて、どこかしらあまり有益な情報を得られていませんでしたので、保健婦というキーワードにもう一度立ち返って、考え直す必要性もあるのではないかと反省したことが今回の収穫です。
風光明美なところで身体も心もリフレッシュしました。
なぜいきなり長野県安曇野市かというと、穂高に「保健婦資料館」という施設があり、そこには保健婦関連の資料がかなり豊富に取りそろえてあるということをTwitterで知り合った方から情報を頂いたからです。
これまでのブログの記述からわかるとおり、私は生活改善の中でも保健衛生活動、とりわけ保健婦の活動を取り上げて研究しておりました。しかしながら、研究しているとは言っても保健婦がどのような存在でどういう活動を主たるものとしていたのか、どういう風に地域に入って行ったのかというのを聞き取りでしか知らず、基本情報としての知識があまりに少なかったのです。そこで「保健婦資料館」のお話しをいただいたのでして、これを機に一から保健婦という存在について勉強してみようと思い、いろいろと資料を集めてみたいと思ったのです。
これまで、私自身フィールドで資料を追うことはあっても、本格的な資料調査というのをしてきたわけではなく、どういう資料がそこにあるのか、どういう調べ方ができるのか、またどういう資料を選んで研究すべきなのかということを結構悩んでいました。正直なところ私の保健婦のイメージは、村の中で臨床を取り扱ったりする専門家という位置付けでしかなく、私の論文でも彼女を取り扱うのはどうもその職業性のみで語ってきたきらいがあります。しかしながら、保健婦の語ることについてよくよく考えてみると、ただ単に臨床でやってきたわけではありません、公衆衛生の知識を広く村人たちに触れて回るのですから、彼らの生活の中に直接入っていくことをしなければ、うわべだけのその場しのぎの活動になってしまいます。私が、兵庫県宍粟郡(現宍粟市)でお話しを聞いたA保健婦は、こんなことを申されていたのを今でも覚えています。「衛生環境が悪いことを説明するのに、まず生活をみてからじゃないとわからない。家庭訪問の際は些細なことでも、訪問家庭の生活事情を記録し、それをもとにしてさまざまな(公衆衛生活動ないし、保健)活動をおこなった」という。つまり、保健婦は村の生活について理解をしなければならず、そのために家庭訪問を繰り返し行い、そのたびに衛生知識の普及に努めたというのです。保健婦はこうした村人の立場の中に身をおいてこそ実践が可能のあのであって、単に臨床の現場だけを抑えておかばいいというわけではないのです。
そうしたこれまでの調査でうすうす気づいていたものを少しずつ考えていくことがこのところの私の作業でした。そこで、はたと気づいたのです。保健婦というのを職業として、保健活動を業務としてみているのでは、民俗学の中で保健婦を取り扱うのはかなり無機質になってしまわないかと。要するに、活動の流れや地域での位置付けをするだけでは、民俗とのかかわりは描けないし、たとえ描いたとしてもそれは人間の営みのなかでの生活と活動との間に隔たりをもったものになってしまわないかと。そういう心配をしたのです。よくよく考えてみると、保健婦というのは先にも話した通り、村の中に身を置いて活動しているわけですから、生活に深く根ざしており、民俗にも多大に影響を与えていたのではないかと思ったのです。人々の生活意識において保健婦が与えた影響は民俗学としても無視できないのではないかなと思ったのです。そして、これが重要なことなのですが、単なる活動の記述として民俗学で保健婦を扱うのではなく、村人と保健婦がどういう風に接してきたのか、そこでどのような生活への取り組みが向けられていったのか、その時どういう感情があったのかということも含めて立体的に活動をとらえる必要性があるのではないかと。今までの私のやり方っていうのはそこらへんの立体感にかけていて、どこ無機質な記述になっていたのではないかなとおもったのです。
そこで、話は少し戻るのですが、保健婦資料の中に「保健婦手記」という保健婦の活動を記録したものがあります。この資料は、度々書籍として刊行されており、私もそれを何点か集めています。その中で重要なのは、彼女らがいかに活動したのかということと同じぐらいに、どのような思いでどういう風に接してきたのかという、業務にかかわる苦悩や喜びといった感情が描かれていることです。保健婦は専門家ではありますが、その前に一人の人間として職務に当たっています。つまりそこには人間らしい、その表情豊かな記述があるということなのです。そこで、今一度この資料類をみていくことで、どうにか保健婦活動を立体的に描けないものかと思ったのです。保健婦活動はなにも兵庫県だけが特別ではないし、日本各地で様々な活動が営まれ、各地の保健婦は創意工夫しながら村の中に身を置き活動しています。そのことをもう少し知りたかったというのが、私を「保健婦資料館」へいざなったと思うのです。
保健婦資料館で所蔵されている資料の中には、そうした手記類は多数あります。そうした記述を丹念に見ていき、そこから民俗学にアプローチしてみることもできるのではないかと思っています。私のアプローチ方針としては、「保健婦手記」や保健婦の証言から、村人の生活にどういう風にかかわり、どういう風に変えようとしたのか、またそこにはどのような葛藤があり、どういう賛同をえたのかといことを今一度民俗学の中で位置付けてみたいと思うのです。
これまでの研究が生活改善という言葉にゆらされて、どこかしらあまり有益な情報を得られていませんでしたので、保健婦というキーワードにもう一度立ち返って、考え直す必要性もあるのではないかと反省したことが今回の収穫です。
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