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2013年10月18日金曜日

京都民俗学会に向けての研究整理作業と目的の再確認。

 日本民俗学会年会の会場で京都民俗学会の方々、特に恩師とお話しする機会を得て、このたび、12月1日に佛教大学紫野キャンパス(京都)で行われる、京都民俗学会年次研究大会に発表者として出席させていただくことになりました。
 日本民俗学会の発表では反省することがいっぱいあったのですが、なかでも学会の発表時間の関係上削り続けていた、保健婦と民俗との関係性、保健婦の手記を民俗学で取り上げる意義性について発表させていただくことができなかったので、そこを今回の京都民俗学会では取り上げたいと思っています。勿論、これまでの保健婦研究や生活研究についても俯瞰する形で、研究史のあらましについて触れたいと思うのですが、まだどうなるかはわかっていません。
 一応、どういう発表内容にするかは以下の通りです。

 
タイトル:保健婦と民俗の関わり()

概要;
発表者は生活変化の具体的諸相を追う中で、保健婦の動向に目をつけ、彼らが果たした役割について調査してきた。ただ、従来民俗学における保健婦の研究というのはあまりなく、また周辺諸科学でも保健婦機構の変遷を述べても、地域内の具体的指導、さらに地域住民の受容については触れられていなかった。そこで、本発表では、保健婦自身が書いた手記類をベースにそこに描かれる住民との交流の中で生活変化がいかにして起こったのか、民俗と保健婦の在り方を再認識してみたい。


 日本民俗学会では、事例を中心に話を進めていたのですが、本来あの話をする前に、本質的に保健婦とは何か、保健婦とはどういう性格を有しているのか、さらに活動においてどのような思いを抱いているのかというような概略的な部分が不可欠でした。時間の都合上、事例を主体としてしまったため、そこに関する文言が足りておらず、保健婦と民俗学上においてどう調理するのかということについてはあまり分析を踏まえていなかったことが悔やまれます。なので、今回の発表はその本質的な部分について言及することにし、事例はあくまで補足程度にしたいと考えます。
 民俗学の研究なのに事例を補足というのはなんだかおかしい気もするのですが……ただ事例で言えることが限られていることもありますし、さらに言えばあまりに断片的な地域のとらえ方が中心となってしまいがちなので、大きく俯瞰するには、その時の時勢というものもちゃんととらえておかないといけません。ですから、事例を中心軸に据えるのではなく、まずは保健婦の活動と民俗の交差点を確認し、そのうえで何が言えるのかをまずはとらえてみたいと思います。

 あとこれは、以前、ブログでも紹介した「研究計画書」ではありますが、今回の発表においてはこれを中心に考えたいと思っています。


 
平成25518日改訂

 
 

研究計画書

研究題目:「保健婦からみた生活変化と民俗学的アプローチ」

副題:「「保健婦の手記」からみられる農山村の生活の変化模様について」

 

内容:

1.はじめに

【生活研究としての疑問】

 本研究は、従来の民俗学での生活研究のあり方が、衣食住という三分割にされて、それぞれにおいて物レベルで述べられてきた事象を、一度生活の総体として見直し、且つその生活がいかにして変化してきたのかを問うことを第一の目的としている。1

【保健婦と農村生活】

 具体的には戦後から高度経済成長期、昭和20年から50年代の保健婦の活動を概観するとともに、彼女らがみた農山村の変化はいかに映っていたのか、また彼女らにとってそれらの生活に対してどのような感情を持ち、その上でそれをどうしようとしたのか。さらにそれらの活動を農山漁村の人々はどのように見守り、それを変化として受け入れたのかを見ていくこととしたい。

 

2.研究の方向

【生活研究の反省と今後の展開】

 従来の民俗学での生活の変化というのは、物質変化を中心に描いてきた経緯がある。これはどこに「民俗」を考えるのかという考えから来るもので、当然ながら昔使われていた道具類に関するその形状や使用法、そしてそれが使われてきた背景、そして道具やその周辺の変化などを追ったものであった。物質文化の側面からの見解であり、その歴史性を実証する意味では評価できる。

但し、道具は人間があってこそで、その行動、身体と密接になければならない。道具の使用法にも関わってくるわけだが、どういう生活環境上でそれが身体の道具として使われてきたのか、その道具を人々はどういう風に「生活」の中に位置づけていたのかを含めての相対的に研究が必要なのではないか。

 

【「生活」のとらえ方】

「生活」は、単に衣食住を総合したものを指すわけではない。もっと多角的で生業や村政なども取り入れた村全体、家庭、そして個人へと向けられる身体の動き活動を指す。生活は有機的な存在で、無機的なものではない。この方針は従来の民俗学ではあまり見られない主観的な見方でもある。従来物質文化でもって客観的な変化の説明をしてきた。しかしながら、人間生活には感情があり、有機的な変化への眼差しがある。物質文化を主軸にした客観的な分析のみでは普遍性や集合性を維持できるが、生活の多様や生活を営む人間の判断などを無視してしまっている。

 

【「生活」へのまなざし】

そこで、私がやろうとしていることは、人間がそこでどういう判断を暮らしに取り入れ、変化を位置づけてきたのかである。科学性を引き合いに出すのであれば、これは科学的分析というよりも、文学的なものの捉え方かもしれない。人間をどこから見るかによる区分での科学であるが、ただそれを外見でのみ分析するには生活の動きはそう簡単なものではない。もっと内在化したものを含めて検討してこそ初めて具体性をもった生活が描ける。私は、本研究で科学論を振り回すつもりはないが、生活という舞台は人間が構造する多様なものであり、それを客観的な分析のみで終わらせては、そこに生きる人々の顔は何も見えてこない。それに問いかけ続けることがこの研究の第二の目的である。

 

【ライフヒストリー、手記への挑戦】

1)生活描写としての方法論

この生活の変化は、個別事例的である。ライフヒストリーとしての生活描写、その人が生きてきた経緯を記すこと、そこにどのようなきっかけがあうのかを描きだすことが大事になる。しかし、ライフヒストリーだけがそれをできるわけではない。例えば、農山村の文集の中から得られる情報、後で述べる農山村を見つめ続けていた人物からの手記などが、その生活を当事者として映し出すことができる媒体となる。

文集や手記というのは、ある一定の認識のもとに編集された記録であり、作為的なものを感じるかもしれないが、生活を記すという行為は自己の意見を表面化し、そして社会に向けて発信するという役割がある。

 

2)ライフヒストリーと手記

ライフヒストリーは個々人が描く場合もあるが、どちらかというと話者と調査者の関係性の中で言葉を見つけながら描かれるものであるから、そこに自己の意見であるとかそういうことよりも、もっと自己反省的な色合いが強い。それは単に歴史を編むことと違って、自己と向き合うことであり、客観的に自分を捉えなおす作業でもある。

しかし、私が取り上げた文集や手記というのはそれとは違っていて、その当時のその時々の意見の集合体であり、自己と向き合うのは当然であるが他者に発信するために記されている。多少文学的な書き方があることはあるにしても、自己の意見を表面化する作業であることには変わりないし、何より当時性をそこに見出すことが可能な素材である。ここからみえる生活の様相は従来の民俗学にあるような社会経済だけを表したようなものではない。その書き手個人ないし、そこに描かれる人々がどういう状況下にあり、それをどうしようと動いていたのかを理解しうるための重要な手掛かりとなる。

 

【生活の身体性】

1)生活と身体

 生活の要は物質ではない人間であるその身体にこそ意味がある。その身体を守る上で、命をつなぎとめる上に生活が根付いている。「体が資本」といわれるように資本社会において身体の健康は必須のことであり、それがなければ働けないし、暮らしてもいけない。そこに保健医療という生活を保障するものがあることは自明のことである。

 

2)民俗学における近代的な医療

そうした身体を守る活動に対する研究は、民俗学では民間療法に求めてきたきらいがる。確かに、地域ごとに民間療法があり、病との闘ってきた経緯がある。ただ、身体を守る動きは民間医療だけではない、明治期にできた「医制」により、近代的な西洋医学が導入されてきた経緯も考慮に入れなければならない。しかしながら民俗学では伝統的に「残存している」ものにこそ意義がありその変遷をたどることが重要視されていたため、近代によって導入された新しいものに対しての視点は整っていなかった。また、近代医学側もまた非合理的で科学性が見いだせなかったため、民間医療を批判してきた。現在は多少、そうした民間医療への見直しが近代医学の中から生じているし、民俗学内部においても近代医学のことについて触れる機会は多くなったように感じる。

 

3)医療と生活

身体を守る上で、人間が選択したのが医学であり、そこに予防が加わり「保健」「衛生」等が生じ、身体の向上を図るために「健康」が生まれてきた経緯を考えてみると、この近代医学への視点はどうしても避けようがない。それが生活に与えた影響は計り知れない。ところが、民俗学はこれに多少触れるはしても「どうやって医学が人々の中に入っていき、そして普及していったのか」また生活の中で意識されてきたのはどういった背景があったのかについては何の見解もない。生活をみること、身を守ることを見ることは医療にも直結する。本論は身体を取り巻く事情も含め、生活の変化の諸相を見ることを考えてみたい。

 

3.保健婦と「保健婦の手記」

【生活の変化と保健婦】

1)村外からの接近

さて、身体を含む生活の変化構造とはどういうものなのか、それは村の内部からくるものなのか、いや内部からであれば変化を生むインパクトを育てるだけの素養は、様々な社会的な取り決めや共同体としての意識の中においては難しい。では村の外部からということになる。但し、村の閉鎖的な環境の中にあり、村外部から変化を促す人物が来たとして、それが生活に影響を与えることができるだろうか。人間生活はそんな単純な変化の構造をもってはいない。外部から介入があったとしても、そこに住民の自主的な意志ではないし、生活を根本的に変化させたことにはならない。生活を変えることというのはそれなりにその時点での生活に疑問を投じ、それを解決するための手段としての変化であり、それが基本となっている。このように考えると単純に村内、村外双方のアプローチがもたらす影響力というのは限界がある。しかしながら可能性はゼロではない。村内からの自発的な行動ができないのであれば、村外から村内に向けての内在的なアプローチをする方法があればそれにこしたことはないだろう。そこで、考えられる人物が保健婦をはじめとする医療従事者や社会事業者である。

 

2)保健婦とは

保健婦という存在に対する分析は、いまだにまとまった概念規定がされていない。時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているためもある。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』(日本看護協会出版会 2012)によれば「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、障害を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、個人や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と述べている。一般的に「公衆衛生」「健康増進」「母子保健」に関わる仕事を指す職掌を指す。

 

3)保健婦と生活の接点

ところで、この保健婦をなぜこの生活の変化の場で問うことが必要であるのかであるが、彼女らが行った地域全体、行政や保健所や住民らを巻き込んだ保健活動は、単に表面的な衛生環境の是正を行っただけ、医療の行き届かない地域のためのケアという意味だけではない。その本質は、地域の生活に密接に関与しながら、その生活に身を置き、内部から変えていく力を持った存在が保健婦である。つまり、保健婦はその職務において臨床を中心とする看護婦や助産婦らと違って、地域という現場において何ができるのかを考えることが中心となるため、その地域生活に馴染みつつ、そこに問題点を見出し外部者でありながら内在的に発言できる人間である。

 

【保健婦の手記について】

(1)医療従事者の記録の種類

新体制を持った生活における直接的な資料として、医療従事者が記した記録に他ならない。ただ、医療従事者が基礎的に記すものは大きく三種類ある。第一に医学的分析によるカルテなど、その患者の身体検査におけるデータを記したもの。第二にその身体検査を平均的に述べて分析し患者の健康状態がどのような傾向を持つのかという統計学的なもの。第三に病そのものに対する対策としての治療や予防研究に関するものと様々である。いずれも生活に直接的に関与をもたらすような記述は見受けられない。ところが、それ以外にも医療従事者が記すものがある、それが体験記、回想録、手記というたぐいのものである。本研究で扱うのは医療従事者の中でも生活に接近していた保健婦のそれであり、彼女らの経験をもとに、実際に見聞きした当時の農山漁村における生活実態を詳細に記したものが「保健婦の手記」である。

 

(2)「保健婦の手記」とは

①保健婦の記録の特性

 簡単に説明すれば、保健婦の日常業務における記録をもとに描いた経験談である。保健婦の日常業務である家庭訪問においては、様々な情報が集まる。それは何も母子のこと病者のことだけではない、それを取り囲む過程全体のこともその家庭訪問の記録には記されていく。代表的なものとして吉田喜久代の『砂丘の陰に』(長崎書店 1940)という戦前に記された日報がある。当時の保健婦は「訪問婦」と呼ばれ社会事業的な性格が強いものであり、病者のそれとは違うが、日々の家庭訪問の度にその家の状況を事細かに記録し、上司に報告するような形をとっている。これが戦後においてもそうであったかということはないにしても、家庭状況を把握すること母子や病者、生活弱者がとりまく生活の実態について記録し、それを把握しながら仕事にあたるのであるから、当然のことながら記録類には、日常生活の機微が伝わるものがある。また、たびたび訪問することによってそれが積み重ねられ、その一家の家庭事情から経済事情などのことを知る手掛かりにもなる。

 

②「保健婦の手記」とは

 そうした中での保健婦の手記というのは、それらの家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしに対する疑問点を自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にも就くことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の概念規定と目的

()「保健婦の手記」の共通性

 ところでここで、一応「保健婦の手記」についての概念規定を記しておきたい。というのも、この記録は様々な雑誌等で掲載がされ、その雑誌ごとに性格が異なる。内容もその雑誌の属性に迫ったものが多く、一口に「保健婦の手記」といっても様々なものがある。ただ、共通して言えることは、この保健婦の経験は、次世代の保健婦や同僚に対してむけられていること。また雑誌の書き方にもよるのであるが、保健婦が農山漁村の生活記録を公開することによって、農山漁村の内在化する問題を、読者である民衆に気付かせる狙いを含めてあることがいえる。言い換えれば、「保健婦の手記」と一般的に言われるものの多くが、開示されることによって情報の共有化、問題の顕在化を促すことが主であるということである。

 

()「保健婦の手記」の属性

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

そのため、本研究でとらえる「保健婦の手記」は、「保健婦の日記」「保健婦記録」、回想録、生活記録など様々な領域にわたるものを、大きくまとめて論じることにする。その性格は先に記したような目的を有していることが前提となる。

 

4.「保健婦の手記」の可能性

【「保健婦の手記」を読むこと】

(1)「保健婦の手記」の資料性

「保健婦の手記」は長野県安曇野市にある保健婦資料館に現在集中的に収蔵される傾向にある。国立国会図書館にない本も含めて、保健婦経験者が所蔵していた一切の資料類を寄贈という形で収集し、それを膨大な資料軍の中に位置づけている。但し、未だデータベース化されておらず、今後の整理等で書籍の類型化や属性などについて分析をしていかなければならないが、その利用価値はかなり高い。ただ、「保健婦の手記」の扱いについては資料館付属研究所の研究員間でも、はっきりとした定義ができているわけでもなく、保健婦の歴史自体もまだまだ見直す必要性があるとして、手記類自体に対する研究は未だにない。保健婦の歴史的過程において資料として挙げられるものの、それ自体がどういう性格を有していたのかまではまとまっていないのだ。

『生活教育』より保健婦のメッセージ性は少ないものの、戦後の保健状況を知る意味でもかなり重要な資料である。さらに書籍面では先に紹介した大牟羅良の『物言わぬ農民』(岩波書店 1958)、菊池武雄と共著した『荒廃する農村と医療』(岩波書店 1971)、菊池武雄が記した『自分たちで命を守った村』(岩波書店 1968)といった東北を中心にして活動していた活動家による貴重な資料には、保健婦に限らず、保健婦の指導を受ける側、医療を受ける側である農山漁村民の声も証言としてあり、一概に「保健婦の手記」が保健婦だけの目線というわけでもない。さらに、長野県の佐久病院中心に活動した若月俊一という医師が自己の回想録として農山村の生活の現状とそれに対する生活疑問のあり方、さらに改善の方向性を描いたもの、及川和男の『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』(れんが書房新社 2008)に出てくるような東北のへき地医療に対する深沢晟雄の村行政の動きと保健活動、それと関わる菊池武雄の国民健康保険組合の動きなど様々な中に描かれる事象がある。つまり、私が取り扱っている「保健婦の手記」類というのはそうした幅広い業種間における保健活動の主観的記録類をベースに成り立っている。

 

(2)主観的資料への科学性

こうした記録類は先に述べたように主観的で客観性を補うには多少難しい資料である。そこに科学性をもとめるのであれば、どのように立証するのかであるが、それについては実際に現地でその当時の話を当人もしくは親族、さらに旧住民に聞き取り調査を行い、また統計データなどの客観資料が県庁もしくは保健所に保管されているのであれば、それをもとにして立証することを考えている。ただ、「保健婦の手記」は保健婦および関係者が、農山漁村の暮らしを客観的にとらえた結果を記したのであり、またその感想であったりするわけであるから、全く客観性に欠けているというわけではない。そこは科学的に見て立証可能ではないかと考える。資料論的な分析も含め、「保健婦の手記」を取り巻く状況を明らかにしながら、そのうえでその内容について触れていくことにしたい。

 

5.まとめにかえて

【具体的な研究調査計画】

(1)資料調査面

 保健婦資料館および国立国会図書館、さらに各地域の保健所の協力を仰ぎながら、その当時のできるだけ詳しい状況を「保健婦の手記」をベースに読み込んでいく作業をしていく。紙資料については、保健婦資料館に所蔵されている雑誌類から収集調査し、分析ののち整理しながらその内容の分析を行うこととする。現時点では表1に代表される『生活教育』の「保健婦の手記」記事を追っている。

 

(2)フィールド調査

 現時点での調査地の選定については、「保健婦の手記」の分析しだいによって変化するが、複数の地域を候補地に挙げておきたい。第一に、京都府南丹市日吉町における保健活動について。これは『生活教育』の「保健婦の手記」に頻繁に登場する人物が旧日吉町国民健康保険診療所保健婦として勤務し、そのことについて昭和35年から37年にかけて3度にわたり入選作品として掲載され、そのたびに評価を与えられている。そのことから考えて、日吉町での保健活動がいかにしてあり、保健婦の足跡がどういう風な変化を及ぼしていたのかを実際現地で聞き取り調査しておきたいと考えている。今のところ、日吉町郷土資料館ならびに元職員であった向田明弘氏の協力を得ながら、調査のための機会をうかがっている。

 第二に、長野県佐久市臼田の佐久総合病院における保健活動の分析である。これは直接保健婦活動とは結びつかない医師の活動ではあるが、当活動が地域の生活改善に寄与し、且つ農林省が行った生活改善諸活動に対しての苦言を医療側から発し、地域住民の生活基盤における改善の必要性を訴えったこと、さらに旧八千穂村(現佐久穂町)の健康診断に積極的に関与し、継続的な保健医療活動を行うとともに、単なる医療行為としてのそれではなく、積極的な健康管理を住民に呼びかける活動を保健婦とともに行っていた経緯があるため、これも参考にしたい。

 第三に、愛媛県鬼北町、広見町中心に行われた保健婦活動について分析する。これは稲葉峯雄が記した『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973)をベースにしたもので、稲葉氏自身は愛媛県の衛生教育を担当していた人物であるが、彼の足跡には保健婦もしかり、そこに暮らす農村民が彼の草の根運動をきっかけにして自主的に、健康管理などのことを勉強し、地域の保健活動に参画していったという背景がある。その時の、保健婦だった方々に現在、八幡浜保健所を通じて連絡を取っており、調査可能であれば、聞き取りにいくことと、地域を歩いてみてその当時どのような生活が営まれていたのかを概観してみたい。

 第四に、岩手県北部の農山村における保健活動について分析する。これは大牟羅良、菊池武雄らが取り組んでまとめていた『岩手の保健』に出てくる、保健婦活動をベースに、その地域でどのような活動が行われていたのかを検討することにしたい。『岩手の保健』は大牟羅良が岩手県国民県子保健協同組合より依頼されて作られた背景があり、国保の変遷をみるうえでは重要であると同時に、大牟羅が取り組んだのは単に保健活動の業務報告だけでなく、もっと開かれた雑誌として農山村民の声を拾い集めて、それらの生活記録を提示することで、具体的な保険の状況と、それに応じて変わっていく生活をうまく描いている。これについては『物いわぬ農民』や『荒廃する農村と医療』の中でも再三問われている生活疑問とそれに対応しようとした大牟羅の軌跡をたどる意味で調査を考えている。但し、まだ具体的な地域名については上げておらず、今後『岩手の保健』の記述を見ながら検討することとしたい。

 現時点においては四つの調査を予定しているが、いずれも昭和30年代から50年代にかけて同時期に行われた活動であり、全国的な波紋を呼んだ活動でもある。その意味でも、保健活動がいかにして地域と関わってきたのかを知る手掛かりになるし、保健婦および医療従事者がどのように住民に接近し、さらにどうやって住民がそれを受け入れていったのかという過程を見ることが可能となる。さらにいえば、その過程を見ていく中で地域住民が自らの生活を反省し、それに応じて変化を受容する動きをしていく過程も散見されるため、これを具体的に分析調査しながら検討することは生活研究における生活の総体の理解へとつながる。

但し、本論は地域比較論を展開するものでもなければ、保健活動の伝播論を述べるものでもないし、保健活動の類型論を展開するわけでもない。それぞれの地域的特色、取り組みの仕方を検討し、そこからどのようなことが言えるかを民俗学的視点から分析研究することにする。つまり、地域生活をそのまま記述することでその当時の生活のリアルな動きを観察し、そこに身体を守るという上で保健活動がいかに根付き、それらを住民が受け入れていったのかを各々の立場から考えていきたい。これは、地域を天秤にかけてこの地域では受け入れが足りない、こっちでは積極的だということを表すのではなく、あくまで保健事業と人間とがどういう関係性のもとで描かれるものなのかを生活面からあらわすためである。

 

【将来的展望】

(1)「保健婦(保健師)のための民俗学」実践の模索

本研究は、いずれにしても過去の保健婦や関係者の活動について外観し、地域住民と関係性、生活への関与、そして生活の変化への取り組みを考察することを主題としている。

しかしながら、なにも過去の経験を探ることだけに主眼を置いているわけではない、本研究の将来的な展望は「保健婦が経験した知識を、現在の保健師の血肉にすること」であり、つまるところ保健婦が見てきた生活実態とそれへの対応を、経験を、現代的な保健師の問題と照らし合わせて問題提起をしていくことを積極的に考えている。

昨今の社会状況の変化により、保健を取り巻く状況は変化しつつある、家族関係の希薄化や、家庭内暴力、乳幼児虐待、いじめ、感染症への理解の不足、医療へ頼りっぱなしの生活、高齢化による介護事業の参入など、目まぐるしい変化がそこにあり問題が露呈している。このような問題を解くカギの一つとして、保健婦が行ってきた家庭訪問や地域貢献の在り方が問われてきている。家庭訪問は、先に記したように健康を観察することだけに限らず、その家庭生活の機微に触れることを指し、問題の早期発見と予防を兼ね備えた活動である。さらに言えば、この活動は地域連帯をはかり、地域と行政や医療との橋渡しを行ってきた過程がある。ただ、現在の行政機構の中においては保健所も同様に家庭訪問は各症例、相談ごとの対応になり、事業自体が細分化されているため、全体を見渡せる視野が足りていない。また保健計画作成や事業推進のための書類などの事務作業に追われ、業務遂行に対しての時間的束縛、さらに予算配置などの点において多くの問題を抱えている。

しかしながら、そうした環境にある中でも希望を失わず地域の第一線で活躍する保健師を今一度見直し、保健所や行政と共にこの問題に対して今一度考え直す必要性があるのではないかと考える。私がやれることというのは、保健所や行政、保健師個々に対して現状を語っていただき、そのうえで過去の保健婦の事例を引き合いに出しながら、各問題の解決を促すことである。当然これには多くの時間と予算を投資しなければならず、すぐに実行することは難しい。また方法論についても今後保健婦資料館との話し合いも含めて検討し、現在の問題へのアプローチを試みようと思っている。

 

(2)地域組織構造改革と社会教育への実践的な取り組み

さらにこれはまた保健婦活動とは別であるが、「保健婦の手記」類に描かれた地域住民の積極的な取り組みが現在形骸化し、実質行政が個別的に地域を支えているのが現状であり、自治体組織もそれを維持することが困難な現状が今ある。それを鑑みて、今一度地域連携の在り方を探るべく、兵庫県宍粟市にてもと保健婦のつながりを通じて、地域住民間の組織づくりを社会教育的なスタンスで取り組めないかと考えている。例えば、はじめは大掛かりではなく、小さな読書会から始めてみてはどうかと考える。新聞でも文庫本でもいい、そうしたほんとか文章を通じて文通のやり取りをしながら、地域同士で連携を作っていくこと、自主的に参加していくことを視野に入れた活動がしてみたい。

こうした活動は稲葉峯雄の取り組みにも似た活動ではあるが、自己責任が叫ばれる昨今の状況、孤立を防ぐ意味においても隣近所間の連帯性をどこかで生じさせ、サークル的な活動を通じて何か実践的なものができないかと考えている。これには元保健婦の協力も得ながら、実際に動いてみようと画策している。本来であれば、これが都市部に移行できうるものであればいいのであるが、現時点では農山村の問題としての過疎化、高齢化を見越した連帯性の発揮を今一度検討に入れておきたい。

 

 

参考文献

大牟羅良著『ものいわぬ農民』(岩波書店 1958)

大牟羅良・菊池武雄共著『荒廃する農村と医療』(岩波書店 1971)

稲葉峯雄著『草の根に生きる 愛媛の農村からの報告』(岩波書店 1973)

五十嵐フミノ著『ある保健婦の手記―医療と貧しさの谷間から―』(筑波書林 1982)

五十嵐松代著 新潟県自治体に働く保健婦のつどい 自治体に働く保健婦のつどい編『ごうたれ保健婦 マツの活動』(やどかり出版 1994)

伊藤桂一著『「沖ノ島」よ 私の愛と献身を』(講談社 1968)

岩本通弥・菅豊・中村淳編『民俗学の可能性を拓く 「野の学問」とアカデミズム』(青弓社 2012)

岩間秋江著『青春を谷間に埋めて-無医村保健婦の活動-』(講談社 1958)

及川和男著『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』(れんが書房新社 2008)

大国美智子著『保健婦の歴史』(医学書院 1973)

荻野美穂著『「家族計画」への道 近代日本の生殖をめぐる政治』(岩波書店 2008)

川上祐子著『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』(風間書房 2013)

菊池武雄著『自分たちで命を守った村』(岩波書店 1968)

木村哲也著『駐在保健婦の時代 19421997(医学書院 2012)

高橋政子著『いのちをみつめて ある保健婦の半生』(ドメス出版 1995)

田中宣一編『暮らしの革命 戦後農村の生活改善と新生活運動』(農文協 2011)

南木佳士著『信州に上医あり-若月俊一と佐久病院ー』(岩波書店 1994)

宮本ふみ著『無名の語り 保健師が「家族」に出会う12の物語』(医学書院 2006)

八木透編『新・民俗学を学ぶ-現代を知るために』(昭和堂 2013)

由紀しげ子著『ヒマワリさん』(大日本雄弁会講談社 1948)

吉田喜久代著『砂丘の陰に』(長崎書店 1940)

若月俊一著『健康な村』(岩波書店 1953)

若月俊一著『村で病気とたたかう』(岩波書店 1971)

 

【参考資料】

『岩手の保健』第1号~84(オリジナル版) 岩手県国民健康保険団体連合会

『生活教育』(巻号数不明)昭和35年から40年 生活教育の会

『保健婦雑誌』(巻号略)

『公衆衛生』(巻号略)

『母の友』(巻号略)

『主婦の友』(巻号略)

『保健同人』(巻号略)

『農村北海道』(巻号略)

『社会事業』(巻号略)



1従来の民俗学は「伝統性」に裏打ちされた現象としての「民俗」を追ってきたが、本研究ではその現象の変化の過程を「民俗」としている。

2013年10月13日日曜日

日本民俗学会年会を終えての反省

 こんにちは。お疲れ様です。
 さて、本日は日本民俗学会年会in新潟大学二日目で、発表日でありました。発表内容は以前よりこのブログをご覧いただいていた方々はお分かりいただいていらっしゃると思いますが、「手記にみる日常生活―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―」というもので、生活変化の構造を理解するうえで単に物質に依拠しない人間を介した有機的な関係性を、保健婦と農婦との関わりとそれによって生じた生活変化、特に女性の発言権の確保に迫ってみました。発表は20分と限られた時間中で、私が集中して今回挑んだのは、「保健婦の手記」「農婦の手記」の紹介でした。
 しかしながら、こうやって発表に踏み切ってみると思いも知らない場所から漏れが生じていることがよくわかり反省する限りでありました。特に、手記の紹介に終始していたこともあって、生活変化の具体的様相に触れることもありませんでしたし、変化後に女性の発言権がどうなったのかという部分について言及できなかったことが悔やまれます。フロアーから上がった今後の課題について少しまとめておきたいと思います。私が整理する限りにおいて下記の課題が挙げられました。どれも重要な内容ですし、①に至ってはそもそもこうした研究に対しての先行研究の提示がまったくなかったことによるご批判でした。このご指摘を真摯に受け取り、今後の研究に生かしていきたく存じます。

 
    有機的なつながりを持つ生活として打ち出しているものの、その研究史に関することが出されておらず、発表も研究史を踏まえていない。研究史を踏まえたうえで着眼点を探ることが重要。

    女性史の立場。女性と生活とのかかわり方について、特に家内労働と賃金労働とのかかわり方を整理する必要性がある。例:「嫁が稼ぎに出ていた」というのはどういう意味を持っているのか、それがなぜ女性の地位向上という役割を担っていなかったのか。

    「保健婦」と「農婦」という言葉の定義をそのまま運用していいのかどうか。並列に扱うことのできない言葉を扱っている点。女性や嫁という言葉に置き換えるか工夫をすることが大切。

    「保健婦の手記」を民俗学的にとらえる。資料論。特性と見方を方向付ける。

    地域に対する説明の皆無。行政の予算額などの行政資料の補てん。⇒地域を描きなおす。なぜ日吉町を扱うのかということ。

    日吉町外の全国的な流れを俯瞰する。生活レベルがどうあったのかという点を具体的にとらえる必要性がある。年表化が必要。地域と社会と個人(保健婦) 

 

反省のまとめ

 手記をみてもらうがために提示に走ったことが原因。細かい部分、研究史や分析方法の在り方、結論への結び付けについてが曖昧であった。批判論から入るのにもかかわらず、研究史への読み込みが足りなかった。

日本民俗学会のねらい③

 おはようございます。発表日当日の朝です。何とも言えない昂揚感に襲われるとともに、若干の緊張感があります。
 さてと、これまでブログでは日本民俗学会開催前から、今学会での研究発表にむけてのねらいを整理してきました。
 「手記から見る日常生活」。このタイトルからわかる通り、既出のねらい①と②を見てきたわけですが、まだ、ここまでは「生活変化」ということに対する言及であって、今回のはぴょうのかなめである「手記」については言及していませんでした。そこで、今回は、発表直前となりますが、今回扱う手記に対する私のねらいを整理しておきます。

3)手記を民俗学的な視点での資料化に向けて
①手記という主観的産物の資料化
 本題となる「保健婦の手記」を述べる前に、まずは「手記」全体を俯瞰して、民俗学的にこれらの資料をどう扱うべきかということにいて若干整理しておきます。
 民俗学における手記の扱いについては、従来聞き取り資料と同等に民俗学の調査体系において、聞き取り調査の対象項目の当時性を、そして当事者性を立証する補助的な役割を担ってきました。但し、それ自体に対しての批判的な立証が出来ていたかというと、手記は当然書かれた人間の主観性の発露によって成り立つものであり、事実としての歴史的指標に立った場合、部分的に活用されることは有れど、それだけを扱い整理する事についてはあまり立証されていないが現実としてあります。先に述べて通り、手記は補助的な役割としての位置づけが主であり、つまり研究上の従的な役割を担っています。あまりこれ自体を研究するという視点は民俗学内にはなく、この手記と主たる目的であるテーマを基軸に研究がされるのであって、どうしても補助的にならざるを得ないものです。
 その原因としてはやはり主観性をどう客観性の中で描き、また時代や地域という大枠の中で発露するのかという視点が実は矛盾としてあらわれてくるからだと考えます。例えば、Aという事象を主観性の中から読み取れば、それこそAという事象の中身についてそれを語る当事者の側面からは理解できても、そのAを俯瞰する位置にある歴史という潮流の中では、そうした当事者意識なるものは捨象されていくのがあります。どうしてもそこは避けがたいものがあるでしょう。
 ではそれをいかにして、主観性と客観性を同等に見るのかという点ですが、文字通りこれをうまくバランス良く配置することは至難の業ですし、対局する事例の見方はそれこそA1とA2という視点とで全く異なるものでしかありませんから、これを素直に主観と客観の両側面を理解することはできません。但し、一つとして、主観性の産物である手記を読み取り、解読することという作業の過程おいて、その主観性の産物を、一度歴史的潮流の中で理解し、それでいて当事者性の側面を補完することは可能だと考えます。
 まぁ、言えば妥協点ですね。手記を理解するうえで重要なのは、それを当事者側面といいながらも、それを読む人によって客観化されていくプロセスはちゃんとあります。それをいかに発露し、同意風に理解を結ぶのかが本研究の課題になります。

②「保健婦の手記」という資料の特性を理解する
 今回の発表で取り上げる手記は二つ。保健婦自身が実体験に基づき、生活を綴るという側面を強調し、業務の内容を自己の内在的なファクターによって理解し記述したもの「保健婦の手記」と、そうした保健婦の活動を農村にいる人びとが観察し、その指導をと入りれる際にいかなることを考えそれにどう同調していったのか、また批判的にとらえていったのかを知る手立てとして、農婦自身が実生活を振り返って綴った「農婦の手記」という二つのものを対比的にみていきます。
 農婦の手記については、これ自体また違った歴史的側面の中から登場した物であり、本来別斧として扱うべき産物ではありますが、今回の発表には「保健婦の手記」の中身において住民側はどう理解し、それを受け入れていったのかということを書き出しています。1)①や②で述べてきたように、本発表の目的はあくまで、保健婦側、住民側の双方間における生活の変化の諸相を、「動かす側」と「受ける側」の二項対立的側面から理解し、双方の言動の在り方がどのようになって変化に結びついてきたのかを明らかにするのであって、「保健婦の手記」がメインというわけではありません。なので、ここでの説明は「保健婦の手記」を発表においてどう資料化するのか、そして評価しどのようにしてそれを見つめなおす必要性があるのかについて言及するものとします。
 さて、前置きというのが長くなってしまったのですが、「保健婦の手記」がもつ資料的特性と、資料価値をじゃあどういうふうに民俗学の中で立証していくべきでしょうか。本来ならこうした資料として扱うにあたっての部分を発表内で行うべきなのですが、あいにくそれを説明するための時間を持ち合わせておりませんし、手記を直に見てもらってそこから読み取れる対象をまず知ってもらうことが先決ですので、発表内ではさらりと流してしまっております。しかしながら、資料的特性を、資料価値を明確にしないままに、これを明文化してしまうことには少々危険性を伴うので、ここでは補完的に、「保健婦の手記」というものについて、今一度振り返ってみることにします。
 「保健婦の手記」と一言に行っても、それは多様な性格を有しておりますし、今回の発表でも前に「手記に見る日常生活」のなかで触れたとおり、多くの雑誌を媒介にしております。さらに言えば、その雑誌ごとに特性はまちまちであり、俯瞰して述べると、やはり原稿に述べた三つの特性という部分に限られます。
 第一に、生活描写という側面。保健婦は公衆衛生にかかわる人間であるとともに、彼らは活動するに際して住民の生活把握を絶対的な観察項目として着眼しています。つまり、記された当時の生活模様の克明な描写が可能であるということ、さらに保健婦という専門的な立場における住民生活の矛盾点、まぁこれを部分的に民俗としてとらえてもいいわけですが、その点を鋭く切り出している部分が多々あります。きれいごとではない現実的な側面を有しているといえばいいでしょうか。そういうものを持ち合わせています。
 第二に、この手記が載せられる雑誌というのの性格は、雑誌中の外の記事の多くが医学的な側面からの記事が散見される中で、逆に保健婦の体験というまなざし、つまり主観的な体験談として載せている点において、単に医学的で保健衛生上の啓蒙に則したものというよりも、もっと社会啓蒙的な側面を有していたこと、さらにいえば保健婦が記事を書く、見ることを通じ得られる客観的な医学側面と、主観的な社会側面を同時に配備しているという雑誌の特性との絡みから言えることもあります。
 そして第三に、保健婦の手記が内包する情報の所在というのは、対象読者層である保健婦にありますが、その保健婦らがこの手記に対して思っていたのは、自己と他者との共通認識性、多様性を理解し、その中で自己を見つめなおすという役割を担っており、書き手と読み手相互間に連絡的な意味を持ち合わせる。共通の話題の中からケースへの対応はどうであったのかということを、双方から見つめなおす機会となっていたことにあります。但し、この手記が内包する書き手と読み手の理解が実のところどこまで立証できるのかという部分については、一方的な配信としての場合と、それに対して応答がある場合とで差があり、すべての事象がこの特性を以て理解できうるものかというのは難しいものがあります。
 以上の三点の特性は、あくまで多様な手記の在り方を俯瞰してみた場合に出てくる論点であり、これがすべてとは限りませんが、そのなかにおける「保健婦の手記」の価値化というのは次のように言えると考えます。当事者としての保健婦が内在的に地域を理解したときにおいて、地域生活を客観的な側面、または社会啓蒙的な側面からとらえなおすことを目指したものであり、所謂民俗の事象としてそこにある、地域生活の総合的な理解に立った場合、地域の生活を補完的に位置づけることが出来るという点がまず一点。さらに、先にも「手記」を扱うにあたっての事でもふれたとおり、この資料が主観的な立場にたって読み手によって客観化される対象であるということを踏まえれば、それを読み込むことは地域生活の保健婦側の意図から見た視点が明らかになるのではないかと考えます。

 総合して、この①と②は「保健婦の手記」の資料的価値を民俗学の中で位置づけるために、地域生活と絡めていくことにより立体化していくことをねらいとしています。

2013年10月11日金曜日

日本民俗学会でのねらい②

2)民俗学における「保健婦」、医療従事者をどう位置付けるか
①保健婦と生活
 
 第二の視点としては、やはり今回取り扱う変化の諸相の代表選手である保健婦でしょうね。先に述べておきますが、保健婦に関する民俗学の研究は皆無です。助産師などのかかわりの中で述べられることはあっても、助産師や産婆ほど踏み込んだ研究はなされていません。なぜなされていないのか、実はまだはっきりとわかっていません。ですが、一言だけ言えます。民俗学の中における民俗、それはどこかしら「伝統」という縛りの中で考えられてきており、医療に代表されるような「近代化」というのとはどこか距離を置いているように思うのです。生活のすぐそばにあって描ける問題であるはずであるのに、これについての言及がさっぱりなのは、民俗としてそれを認識し、伝統とかそういう歴史的な中でとらえるには、あまりにも「浅い」領域であるからではないかと思うのです。但し、私からすれば、近代化という過程があってこそ生活は変化していったのであり、それをなかったことにすることなどはできませんし、生活研究の中における医療の在り方というのはそれこそ重要な位置を担っていたに違いありません。生活研究の中で「近代化」をとらえる研究は多数ありますし、このことについて全く論じてこなかったわけではありませんが、ことに医療に関しては未だに富山の置き薬研究をはじめとする、前近代のものがどのように近代化をしていったのかという風になっており、そこに医療従事者という人間が描かれていないというのが多々見られます。もちろん、産婆と助産婦(助産師)は別です。
 いずれにせよ、医療従事者という人間が生活に介入していることへの眼差しがすごく薄いのです。そこで、私は、医療従事者の中でも地域に入り込み、さらに地域住民の生活に密接に関わろうとした保健婦(保健師)を挙げてみました。保健婦について私が言及するのは、これまでの生活改善研究がらみで、保健婦が中心となり地域生活の変革を打ち出してきたという事実を、兵庫県宍粟郡千種町という事例の中で述べてきたからです。事実、この地域の生活の変化は、衣食住というカテゴリーにとらわれず、総体として保健婦が深く関与し、その働きかけを契機に地域がまとまりをみせ、生活革命へと移行していく変化の諸相を見ることができました。ただ、これがほかの地域にも言えるかというとそうではないことはわかります。暗になこぎつけであるとは思います。ですが、保健婦という職掌が、人々の生活に関わっているというその事実をもってしても、その影響はかなりのものと思います。
 私は、保健婦が生活にどう接近し、どういう風に対処してきたのか、またそれらの活動を住民はどのように思い、そして考え、実践に移してきたのかという。それこそ1)①で唱えたような、生活変化の有機的連関として、保健婦と地域住民を描いてみたいのです。

②保健婦と民俗学
 とまぁ、いろいろ御託を述べてきましたが、実は、これを民俗学内で位置づける場合において、単に生活変化に関わった人間であるからとするのは、かなり弱いです。かかわったという事実だけであれば、それこそ人間の人生の中でどれだけの人が関与し影響を与えているかなんて計り知れませんからね。
 だから、私はこの接合点について考えを巡らせなければいけません。現時点においてはっきりとした名言はできませんが、保健婦がおこなった行為、それは医療行為というものではなくて、身体を基準とする生活の悩み相談に応じることが主だったとみています。あとで述べますが、「保健婦の手記」という資料の中に散見する保健婦と地域住民の関係は、それこそケースへの対応として描かれているものの、そこに病気を治すという以外に、生活を整える、生活を改善するということのほうがより具体的に描かれています。病後のことも含め、社会福祉につとめるのが保健婦の務めでありますから、それはなおさらのことでしょう。そこで、私が言いたいのは、生活変化を民俗学の中で有機的なつながりでもって紹介する場合、生活を見つめる視点というのはどこにあるのかということを重要視したいのです。わかりにくい説明で恐縮ですが、生活を生活者の視点で取り上げる場合と、非生活者の視点で取り上げる場合とでは、全く異なりますし、双方の言い分はかなりの確率で摩擦を生じかねません。ですが、そうした摩擦を生じさせていくことが、変化を生むきっかけになると考えた場合、じゃあ、その非生活者という視点というのもやはり必要不可欠なものではないかと思うのです。民俗学で、いかにこれを取り扱うのかについては今後考えていくべき問題でしょうが、その一つとして非生活者として生活者に対峙した保健婦がどのように、その摩擦を繰り広げていったのかということは、生活研究の中では大きなことであると思うと同時に、民俗学内部において、新しい職業者的な視点を植え付けることにもつながります。
 まだまだ、分析が足りませんが、私の中では民俗学と保健婦の関係性はそこに起因するように思うのです。

日本民俗学会でのねらい①

 こんにちは。さてと、明日いよいよ新潟大学にて日本民俗学会年会がスタートします。二日間にわたっての会なのですが、一日目はフォーラムで、二日目から研究発表となります。

 それで、今回の発表についての意気込みを一言。

 「なんとかこれまでの民俗学の常識としてとらえられてきた、変化の諸相、物質や経済の発展性の中からとらえる生活変化を、もっと人を介して人によってはぐくまれる有機的変化へとベクトルを向けることができるように頑張る」

 詳細としては↓

【本発表のねらい】

1)生活変化からのねらい
①「変化」の認識を変える
 まず、今回の発表で最重要視したいのは、生活研究の位置づけを、これまでの物質変化を基準としたものから、人間関係という有機的変化へと変えていくこと。衣食住とあまりにカテゴライズされて物質化した変化を、そうしたカテゴリーで分けるのではなくて、生活総体としてとらえなおし、さらに人間の有機的つながりをそこに見出すことにしたい。
 これまで、私の投稿をご覧いただいた方はわかっていただけていると思いますが。私は、生活というのを「動かす側」と「受ける側」という二つの関係性の中で論じています。私のこれまでの論文にも多く登場してきましたが、生活というのは一方的に変わることはあり得ません。ちゃんと「受ける側」が試行錯誤しながらそれを考え、その考えに基づき取捨選択した結果が「変化」であると考えます。一口に変化といってもそこには多くの段階があり、その結果を私たちは「変化」と認識しています。
 だから、民俗学はその結果だけをみて答えを出していたのでは、それは「変化」の中身をあまりにも軽視しすぎているように思います。社会変化や大きな歴史的潮流というのはありますし、それによって生活の外観が変化することはわかります。ですが、それがすべてであるという風にしてしまうことは危険だと思うのです。
 社会の変動というのをとらえる側はそれこそ千差万別であり、角度によっては社会の変動の受け具合がまた違った形になっている可能性も否定できません。地域の変化を考えるうえで、確かに社会変動と結びつけながら、歴史の中に置き換えることも重要ではあると思いますが、ただ単にそうみるのではなくて、そこに関わる人々の在り方とか、関係性とかそういう有機的な、動態的なファクターも必要となります。
 私は歴史を否定するわけではありませんし、歴史的潮流や社会変動をないがしろにするわけではありません。ただ、もう少し地域を丁寧に扱うことはできないだろうかと思うのです。地域変化と社会変化、生活変化を一つの変化のようにして扱うこと自体が本来は難しいはずですから。だからこそ、もっと違うファクターでもってとらえなおすことが地域の実情をとらえるうえで友好的であると思うのです。「変化」のとらえ方を、認識を、今一度再確認することがねらいです。

②カテゴライズされる生活を開放する
 また、先に述べたように、カテゴライズされた衣食住という分け方にも問題があります。衣食住という生活の分け方が、実際の生活上で意味をなすものであるかということについて、私は疑問に思います。衣食住はその三つ巴の関係が複雑に絡まり、さらにそこに人間が介してより立体的にとらえられるべきであってしかるべきなのです。衣生活、食生活、住生活の研究を否定するわけではありませんが、じゃあそれらの有機的関係性にどれだけ民俗学がアプローチしてきたのでしょうか。
 ここで従来の研究史を明らかにしたいのですが、何分そこまでの力量が伴っていないため、研究者個々人の名前をここで表明することは致しません。ただいえることだけを申し上げます。もともとこうしたカテゴライズを作ったのは柳田國男からの流れがあるのでしょうが、そのあとの民具研究にも大きな影響があると考えます。民具研究の中における生活は、それこそ道具をまず整理して分けることからなされます。その過程で出てくるのが衣食住というカテゴリーです。そのカテゴリーに分けていく作業をしていくうちに、その物質の伝来とかそういう風なものに関しては目が向きますが、生活という総体の中においてそれがどういう風にほかのカテゴリーと連関しているのかということは述べられていません。大枠としてその物質がたどってきた道のりを見ていくのであって、その中身における人と物との関係性がそこには入り込む余地がなかったように思います。
 
 さらにいえば、民具研究だけに限らず、生業やそのほか人々の暮らしを考え上で私たち民俗学者が指標としていたのは、生活を切り刻んだカテゴライズ化された様相です。民俗誌がまさにその真骨頂でしょうね。その民俗誌から見えるものは、それこそ断片的な生活の諸相です。そこに横のつながりはありませんし、人間の営みを見出すには断片的すぎてわかりづらいのがあります。ただ、これを民俗学の内部においては、衣食住のこうした民俗誌を「資料」として認識し、そこのエッセンスを持って、「生活」という風に表しているきらいがあります。つまり、衣食住というカテゴライズの中からエッセンスを抽出し、その中で民俗学は生活を描いていたという風になります。
 批判的に聞こえたら申し訳ないのですが、こうした民俗学のとらえ方というのは分析上致し方がない部分も多分にあります。それこそ柳田の分析方法を唱えるならば、地域という単位ではなくて全国規模におけるその分布と伝播、さらにそこに位置づけられる歴史性を見出す中で、どうしても対象を抽出的にみてしまわないとつじつまが合わない部分が出てくるのが現実としてあります。現在の民俗学、特に地域民俗学の中でも多くこれがありますが、対象となる地域と他地域との差別化をはかるとき、どうしてもこのカテゴライズされた中の内容を抽出的に取り上げ、そこの上でこう暮らしが違うという風に述べてしまいがちです。
 これ自体に問題があるというわけではありませんが、ただこの図式から言えばじゃあそこに暮らす人々の動きはとらえられているのか、生活を営んでいる人を抽出的なもの、断片的なものから得られるのかということを考えたとき、従来の研究の方針では難しいのではないかと思うのです。だから、私はあえて、抽出的に衣食住を扱うのではなく、生活の相対的な動きとしてのそれを見出そうとしているのです。カテゴライズされる生活を開放するのが次のねらいです。
(*但し、今回の発表ではそこについては言及を避けています。発表の本旨は①なので、カテゴライズについて述べるのは論文になってからにしたいと思います。)

2013年10月4日金曜日

学会発表の読み原稿を公開します。


読み原稿

手記にみる日常生活

―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―


 

はじめに―民俗学の生活変化への疑問から―

 本発表は、生活変化について具体的な事例を挙げ、その諸相について述べていくものです。結論から述べると、生活変化というのは単に一方的な動きによって変わるのではなく、「動かす側」と「受け取る側」の駆け引きによって変わります。

ところが従来の民俗学では、そうした受け手のことを考えた研究がなされておらず、物質や経済の変化をどこか無機質な変化としてとらえているきらいがあります。人間が関わる以上有機的なつながりを持っている変化を、では具体的にどう描くべきでしょうか。

 ここでは、ある保健婦の経験を通じて、保健婦の活動が、住民たちの生活にどう訴えてきたのか、さらに住民たちはどうとらえてきたのかを彼らの関わりから明らかにしたいと思います。

 

1.吉田幸永保健婦と日吉町

1)保健婦と住民との関係性

保健婦は、多くの生活者を相手に、個別の家庭訪問やグループ活動、婦人会などを対象とした講習会などといった活動をしながら、農婦らと関わり生活指導を行っていました。しかしながら、それは保健婦の上から下への指導ではありません。資料編の手記を見ていただければわかるとおり、様々な壁がそこにはあって取り入れられない場面が必ず出てきます。受け手側の農婦らは常に保健婦の活動に対して疑問を持ち、不満を保健婦にぶつけてきます。その中でそれをどう解消するのかが保健婦の役割であります。そうした対応の在り方は、まさに保健婦と農婦たち有機的な関係性の中から見えてきます。

 

2)地域概要京都府船井郡日吉町
①地理状況
 具体的に地域を見て行くことにしましょう。まずはこちらの地図をご覧ください。船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置します。町域の南部を大堰川が流れ、殿田付近にて他の4支流を合流しています。また、胡麻郷地区には由良川が流れています。集落はこの河川に沿って谷間に点在しております。現在は南丹市という行政域に含まれていますが、それ以前は日吉町、またそれ以前は胡麻郷村、五ヶ荘村、世木村の三か村から成っていました。


②生業形態
 現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)、昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っています。
 現在の生業は農業が中心となっていますが、これからお話する昭和30年代当時は主に農林業が中心でした。谷によっては農林業での収益があまり見込めず、近隣のマンガン鉱山に出入りして稼ぐ人が多くいました。しかしながら、林業も燃料革命を機に徐々に衰退していき、さらに農業外に日雇や出稼ぎで収入を得る人々が多く出て、兼業化が加速化していきました。

 

③村の状況
(
)昭和30年代の町政の動向
 町政をみていくと、昭和30年代を皮切りに、過疎化に伴い、企業誘致やその他もろもろの政策を進めていこうとしました。道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きたが、ライフラインの整備が遅れていました。保健衛生上においても準無医村地区になっており、病にかかっても病院へ行くのにかなりのお金と手間がかかりました。
 このような町の状況に対し調整の動きが旧態然としていたのは、町政に意見が言える立場の人間が各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長など男性が中心であったためです。実質家庭生活を支える女性の意見はそこへは反映されることはなく封建的な社会環境のもとで政策がすすめられていました。

(
)新しい動きとして
 女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、加えて女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在でした。農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があり、その当時の女性の位置づけが読み取れます。
 ところが、昭和35年前後から京都府内を特に丹波地域にて女性の地位向上を目指す運動が活発化していきました。この動きについては現在調査中ではありますが、様々な機関、社会教育方面、生活改善方面などの動きの中で現れ、さらに女性運動家の壽岳章子氏の活動が後に女性問題研究会を結束するなど、多様な人間関係の下で女性の解放、地位向上が叫ばれるようになってきました。日吉町でもそれは例外ではなかったのです。

 

(3)吉田幸永保健婦と保健婦活動

 そうした新しい動きに積極的に関わろうとしたのが吉田幸永保健婦でした。大正14年に生まれの人懐っこい性格の人物で、世話好き、困っていう人を見るとよく手伝ってあげたりしていたそうです。

当時の村では夜間にしか医者が常駐しておらず、昼間はもっぱら保健婦がこの対応に追われることがよくありました。そのため、吉田保健婦は「医者の代わり」としての役割を強いられました。対象者への家庭訪問、婦人会などでの啓蒙活動を行っていました。

彼女は、とにかくエネルギッシュで使命感に燃えて次から次へと保健問題を挙げて、時には行政にぶつけてその矛盾を問いただす場面が多々ありました。こうした彼女の活動を知るうえでみてほしいのが資料編の「保健婦の手記」です。

 

2.「保健婦の手記」を描く

(1)「保健婦の手記」とは

「保健婦の手記」をざっくり説明すると、その特性は三つあります。第一に生活に根差した活動をするために克明な生活描写があること。第二点に、掲載される雑誌の傾向として医学的なものの外に社会教育的啓蒙を目指していたこと。第三にこの雑誌の購読者層は保健婦が多く、内容も応援メッセージ、悩み相談、教育の現場のレポートなどがあり、保健婦相互間の連絡を兼ねていたことが挙げられます。つまり、業務報告とは別に保健婦によるケースへの対応と、そこでの取り組み、連携などを総合的に文章化したものが「保健婦の手記」です。

今回は多くある「保健婦の手記」の中でもとりわけケースへの対応に力がそそがれていた雑誌『生活教育』にから、吉田幸永保健婦の軌跡をたどってみることにします。

 

(2)吉田保健婦の「保健婦の手記」

 『生活教育』は昭和31年に生活教育の会より発行され、平成9年に後任の保健同人会の廃刊を機に終焉した雑誌で、その中での吉田保健婦の記事は多様にありますが、現時点において私が把握しているだけで、昭和35年から41年までに、合計5回雑誌への掲載がなされています。すべてについて触れている時間はありませんが、その中から一篇「小さな足跡」について資料編に乗せておりますのでお手元の資料をご覧ください。

ここに描かれるのは寄生虫卵撲滅運動で、その記述の中に改良便所についての一文があります。吉田保健婦が地区を回って衛生教育をすすめるうえで改良便所の設置について働きかけ、その支度金を各戸からお金を出し合って取り組もうします。ところが、その支度金として貯蓄していたお金の使用が、子どもへのお小遣いや、そのほか家庭用品へと消えていったことを嘆いています。これは、普段主人や姑に頭が上がらない嫁たちの苦悩を表したものであり、保健活動が多くの人の関係性の中に描かれ、保健婦はそれに粘り強く対応していくことを求められています。常に保健婦側の思っている意図と、それを理解するべきはずの住民との意図がかみ合わない場合が出てきてそれに奔走する保健婦の姿があります。

 

3.農婦の手記と保健婦

1)農婦たちの戦いと保健婦

①農婦たちの記録

 先に見たのは吉田保健婦側から見た生活の現実ですが、では具体的どのような生活がそこにあったのでしょうか。ここでは保健活動の受け手側に立つ、女性たちの視点から今一度これについて確認してみたいと思います。

 主として婦人問題研究会が発行していた雑誌『婦人問題研究』と、草川八重子・壽岳章子が編集を担当した『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』を中心に見て行きます。吉田保健婦との関わり、また船井郡の女性たちの活動については、婦人問題研究会が出していた昭和40年代から刊行されている『婦人問題研究』の第10号から44号までに度々散見します。先に昭和30年代から女性運動が活発化したといいましたが、その記録がこの雑誌に多く所収されています。この資料の位置づけは、女性の地位向上や差別に関するものを取り上げ、女性自らが意見を言える環境をつくることを目指したものとなっており、雑誌は発表者の発言録を中心にそれについて討議されてきました。そこには農婦らによる手記もあり、彼女らがどういう風に吉田保健婦の活動を見ていたのかを書いています。

 

②農婦と保健婦と生活改良普及員

そうした活動をとらえるうえでまず注目したいのが複雑な人間関係の在り方です。吉田保健婦と農婦との関係は、母子保健などの活動を通じてです。吉田保健婦は農婦たちのグループ活動を始めており、料理教室などを催すなど精力的でありました。ところが、資料③をご覧いただければわかる通り、その料理教室の一場面で、栄養を優先して指導していたがために、農婦から一度家でやってみようとしたけれど姑の理解を得られずに、なかなかうまくそれを家庭の中で実践することは難しいという話が出てきます。保健婦は住民の生活模様を把握しそれに応じた活動をしなければならないのですが、吉田氏はそれが出来ていなかったと反省をしています。

そこで登場したのが、船井郡の生活改良普及員として赴任していた田中友子氏です。田中氏の指導方法は独特で、まず住民の自主性に働きかけることを第一に考え、自らの指導というのは住民の背中を押してあげる程度にとどめ、何から何まで指導することはしない。

吉田保健婦と田中友子氏との関係は、その思考的な部分でかなり大きな違いがあった。吉田保健婦は「住民のために」と献身的に動く傾向にあるが、田中氏は住民から動くことを待つ素振りをする傾向にある。そのため、しばしば田中氏は吉田保健婦の行動について、「あなたのやっていることは官僚主義だ」と糾弾する場面がありました。吉田保健婦はこれまでの指導が住民の実情にそぐわない上っ面だけの活動であったことを田中氏から教えてもらうことになりました。いくら料理指導しても住民側の意識を改革しない限りはそれが定着しないことを単に嘆くのではなく、その背景に何があるのかを考えることの大切さを田中氏は彼女に伝えました。

そこで、田中氏と吉田保健婦はまず農婦たちから事情を聴き、さらにそうした背景にある発言権をめぐる問題をとりあげ、それについて話していくという作業をしていきます。つまり、技術的な指導ではなく根本的な生活意識に訴える意識改革に乗り出したのです。そうした中で出てきたのが、「一番言いにくいことを一番言いにくい場で一番言いにくい人に言う」というような、女性の発言権の強化でした。

 

2)女性の発言権と保健婦活動

①女性の発言権という壁

話は戻りますが資料①の「保健婦の手記」でみてきたとおり、貯蓄するという行為は、若い嫁たちにとっては未知の領域でありました。そのため、その貯金を手にしたときに、主人や姑に気兼ねして家の事についての意見は言えず、お金は家のことよりも生活費に用立てることが優先されていくのです。保健婦がいうような事業的なものに使うという考えはそこにありません。いくら衛生思想を振りかざしたとしても、若い嫁たちの意識は改革できないのであった。今思えば当たり前のことが当たり前にできない、意見として言えないという事態がそこにあったのです。

 

②意識をかえるということ

まず、言いにくいことを言えるようになる意識改革を進めることになりました。ただ、従順な嫁が美徳として語られる社会ですから、男性陣はもちろんの事、姑世代からは意見することは口答えすることにつながり、様々な批判を浴びることになります。さらに日雇などの労働形態の変化によって、嫁は農業外収入を得て経済力を持つことになりましたが、農作業面、育児面において姑に頼らざるを得ず、かえって「頭が上がらない」という立場をつくってしまうという悪循環が起きます。こうした少しずつの矛盾や軋轢が日増しに増大化していった中での発言権の確保というのは並大抵のものではありませんでした。

吉田保健婦と田中氏は昼間はそれぞれに仕事を抱え方々を飛び回ると同時に、夜は日雇から帰ってきた嫁たちを集めて、話し合いを重ねていった。最初は部屋の入り口でたたずみ俯きながら話を聞いていた嫁たちは、徐々にではありますが積極的に「かなんことはかなん」というように主張を強めていきました。

 

(3)受け手としての農婦

①農婦の気持ち

 では、具体的に吉田保健婦らがどのようなアプローチで嫁をはじめとする女性の発言権を確保するようになっていったのでしょうか。次に資料②をご覧いただけますでしょうか。

 この手記はS氏が吉田保健婦や田中氏の料理講習会に参加してのことを綴ったもので、調味料の軽量からはじまり、科学的根拠に基づいた料理方法を自分たちでみつめつつ、また一方でそうした料理をする中で自分たちの意見というものを尊重し合うという雰囲気をつくっていき、その過程には様々な壁がありえたがそれを田中氏らが話し合いをして解決していくようにしていったことが描かれています。

この文章からわかるとおり、農婦たちは戸惑いながらも、それでも普及員である田中氏の指導の下で一致団結しながら話し合いを重ねていきました。そのうえで「もの言う」ことを覚えていくようになったのです。そうした雰囲気づくりを自然な形でやろうと心に決めた彼らの動きというのは単に指導者による女性の発言権の強化という言葉に表されるものではありません。どちらかというと、指導者はその場を整えたのであって、農婦自らがそこへ入り、その中で学び取りながら一つ一つの問題にあたっていったと考えます。田中氏が農婦たちの自主性を強調したのは、こうした意見の発露を目指すこと、また吉田保健婦はこの意見の発露をくみ取りそこから考えられる援助は何かを見て行くようになっていました。

 

②保健婦の失敗と農婦の意見

 農婦たちの気持ちはこうしてくみ取られるようになっていくのですが、保健婦側はこれをどうとらえていこうとしたのでしょうか。次に資料③の吉田保健婦の発言録をご覧いただきたいと思います。

 重湯の話を見てわかる通り、姑の意見が絶対とされていた時代に意見を自ら表明することは、農婦たちにとってかなりの勇気がいるものでした。そのような中で田中氏と出会い、生活改善グループ活動を進めていく中で、「言いたいことを言う」をスローガンに、受け手である農婦たちの言葉を引き出しそれについて検討をし、実行をしていきました。吉田保健婦は、住民の意見に毎回耳を傾け、「町の保健婦」としての職掌よりも、一人の女として人として「町民のため」に、彼らの要求を汲んで様々な取り組みに従事する保健婦へと変わっていきました。

 

まとめにかえて

 本発表は保健婦活動を進めるうえで、吉田保健婦と農婦たちがどう関わりを持って、その保健活動を手に入れていくのかを女性の発言権の確保という意識面での指導に着目してきました。従来の変化の様相のとらえ方では見られなかった心情変化などの細かい伏線、複雑な関係がそこにあること、変化を事象AからBへと単純な動きでとらえていてはみえてきませんでした。一つの生活変化、保健を暮らしの中に反映するためには、それは保健婦だけの問題ではありません。多様な人間関係の下、有機的なつながりがそこにあり、AからBへという変化はBをどう受け入れるのかどう反映させていくのかをひとつひとつ確認しながら理解を深めていく仕組みになっているのです。

 変化というものを単に物質的に機械的に把握するよりも、有機的に人間的に理解を深める方がより具体的な諸相としてそれを見ることにつながるのです。それは主観と客観という問題もある。だが、人の生活をそのどれか一つで見ることはできない。主観性も客観性も含めた総合的な生活把握が必要である。