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2014年3月8日土曜日

平成25年度保健婦資料館年間報告書(発表部門その①)


京都府南丹市日吉町保健婦調査第一次報告

 

はじめに

 本報告は、平成25年夏に南丹市日吉町で行った、故吉田幸永保健婦の動向調査について途中報告をするものである。報告内容は昨年新潟大学にて行われた日本民俗学会にて報告をしたものを、研究ノート形式にして作成した。本調査のきっかけになった故吉田幸永保健婦の手記は『生活教育』の昭和35年より特集されていた記事を用い、また吉田保健婦関係者各位より聞き取り及び既刊資料より調べたものをまとめあげてみた。

 本報告のねらいは、故吉田幸永保健婦が旧日吉町で行ってきた数々の活動が『生活教育』のなかで「保健婦の手記」として取り上げられ、そしてそれらを垣間見るに、保健婦が地域社会において地域住民とどうかかわり、さらにその生活にどう影響を与えたのかを検討していくことにある。報告はその第一段階のものを提示している。

 

○「手記にみる日常生活―保健婦と農婦が綴る生活変化の断面―」(日本民俗学会)

はじめに

本稿は、生活研究の中に保健婦の役割を見出し、彼らが農村生活にどのようなアプローチを行い、さらにどう変化を与えようとしていったのかを、京都府の事例からみていくものである。具体的には旧日吉町の国保保健婦(後に町保健婦)であった故吉田幸永保健婦の足跡をたどり、彼女自身が綴った「保健婦の手記」と彼女の関係者からの証言をもとに、その当時のことを振り返り、そこから旧日吉町の保健活動の展開と生活変化を描くものである。

日本民俗学会発表報告の志向としては、生活研究を主体としていた。日本民俗学における生活動態の研究は少なく、その分析もまだまだ足りない部分が多々ある。その中で、京都府日吉町での生活変化というのはそれを動態的にとらえる一つの方法が確立されていると思われた。それが吉田保健婦と地域住民との相互関係性の中で描き出される、生活変化の動態的観察である。発表では主眼をそこにおいたが、学会上において研究史の曖昧さ、学史的な流れにおいて生活研究を、それも保健婦(日本民俗学においては分類的に「保健衛生」分野というくくりから見ている)という専門職的な動きと絡めることにはまだ抵抗があり、今後の課題としてそれを取り入れることを確約し、その場を辞した。未だその研究史の洗い出しには至っておらず、ここで報告することはままならないので、本稿は故吉田幸永保健婦の足跡を中心に、民俗学と絡めて論じていくこととしたい。

 

1.民俗学と保健婦

この発表に先立ち保健婦という存在が日本民俗学の中で扱われていることの少なさを目の当たりとした。助産婦や産婆といった出産介助に関わる人物像と、出産空間の変遷についての論文は数多く紹介されており、その分析も多岐にわたる。また、介護の立場から民俗学を実践性の中に取り入れる取り組みに関する論考も多い。しかしながら、生活研究という立場においての保健婦の扱い、いや保健婦そのものを取り扱った論考は、筆者本人の論考以外見当たらないのが現状である。

しかしながら、保健婦の存在は大きく、出産時という一時的な場における助産婦や産婆と異なり、その後のケアに関して母子保健という考えから生じた活動は保健婦の方が範囲は広い。さらに、保健婦が果たした役割というのは、生病老死という臨場という限られた場所に非ず、生活全般にわたりその活動が行われている。特に戦後、地域の疲弊が目立ったころの保健婦は「医師の代わり」のような活動を受けていたし、遡れば戦前から社会福祉分野において貧困救済的措置と公衆衛生業務という活動の幅の大きなところに保健婦が立脚していたことを考えると、彼らの生活への影響は見えない部分で大きなウェイトを占めていることがわかるだろう。

民俗学でこの保健婦に関する研究がなされてこなかった背景には、生活研究もさながら、生病老死という儀礼研究の立場においても、その一時的な場にのみ目が行き、その場に関係する人物でより専門特化したものにのみ目が向けられていたからではないかと感じるところがある。言うなれば、特異的な歴史の流れの中で埋没してしまったのが保健婦ではないだろうか。

さて、こうした民俗学における保健婦研究の少なさを指摘するとともに、その研究の可能性について具体事例を扱い述べていきたい。本稿では京都府船井郡日吉町(現南丹市日吉町)を事例として扱う。

             

2.京都府船井郡日吉町と生活

(1)地理的状況

船井郡は京都市から見て北東、京都府全体から見れば丹波山地の東南部に位置し、日吉町は京都駅からJR山陰線で47分の距離にある。町域の南部を大堰川が西に流れ、町の中心部で旧日吉町役場が置かれていた殿田付近にて、町域を枝状に貫流する4支流をあわせるほか、胡麻郷地区を分水界にして由良川の1支谷を町域に含む。集落はこの河川域に作られた狭長な谷底平地に立地している。現在は南丹市(平成18年に園部町、八木町、北桑田郡美山町と合併)という行政域に含まれているが、それ以前は日吉町(昭和30年に合併)、またそれ以前は胡麻郷村、五ヶ荘村、世木村の三か村から成っていた。

 

(2)生業と村の状況

①生業母体

 現在の人口は平成17年の調査で5951人(2029世帯)で、昭和45年の人口は7040人となっているから、昭和40年代の過疎化進行を皮切りに、ずっと人口が下回っていることがわかる。また、これに付随して高齢化問題も上がっており、一人暮らしの独居老人が増えている。

 生業は主に農林業が中心で、旧世木村については殿田を中心に大堰川の筏流しで栄えており、山から切り出した木材を集積する拠点ともなっていた。山陰線が開通後は、その路線沿いに材木置き場が置かれて、そこへ木材業者が集まっていた。旧五ヶ荘村については、山深いところもあってか、田畑での農耕が思うように収益を持てないこと、さらに林業においても交通の不便さから、木材運搬にコストがかかり、林産物の収益もあまり見込めない土地であり、ここに住む人々は鉱山に出入りして稼ぐ人が多くいた。昭和30年代に入ると、燃料革命によって林業も衰退していった。また、農業も兼業化が進み、さらに出稼ぎや日雇いで生計を立てる人々が多くなっていった。

 

②村の状況

 昭和30年代、日吉町となると、過疎化に伴い、企業誘致やその他もろもろの政策を町域では進めていこうとした。道路の舗装を急いだり、公共施設の建設ラッシュが起きたが、実のところこうした町政の動きに反して、生活面においては、ライフラインの整備が遅れていたり、病院設備などがまだなく、あったとしても三か村にそれぞれあるわけではなく、準無医村になっていた。当時の町政の動きは、公共工事などに偏りが出ており、またそこに暮らす人々に対する保障などはなかなか厳しいものがあった。

 水道の設置についても昭和30年代後半からであるが、町政側からの申し出で行われたというわけではなく、地域住民が声を上げて町政に働きかけたことから始まったものであり、財政面で厳しいものがあったかもしれないが、町政としてこれに積極的な関与というのはあまりなされていなかった。

 このような町政の動きというのが緩慢な理由は、一つにそれを支える支持基盤の旧態然とした態度にこそあったのではないかと考える。町政には特に各地区の地区長、地区内にある部落の長、戸長などが協議を繰り返し、それによって取り決めがなされていたが、その取り決めに参加するのはいずれにしても男性が中心であり、生活を支える女性の視点に立った見解がなされていなかった。「女子が口出すな」といわれるぐらいの封建的な男尊女卑がまかり通る社会的環境であった。そのため男性的な意見が幅を利かせていた。

 男性的な行政の在り方に対して、女性側からの意見が飛び交うようになってくるのもこの時期に重なる。それまでは女性はつつましやかなほうがいいという風な言い方が多く、加えて女性の中でも嫁は姑に対して頭が上がらない存在であった。農婦の手記には「牛馬のような扱いであればいいほう」というような言葉があり、その当時の女性の位置づけが読み取れる。

 ところが、昭和35年前後から京都府内を中心に盛り上がってきた女性問題に関する運動というのが丹波地域を中心に活発化していった。これについては女性運動家の壽岳章子氏もよる「女性問題研究会」の発足とその活動が背景としてあった。ただし、この活動が日吉町で形を見るようになるのは昭和40年代に入ってからであるが、保健婦らの介入があって、女性を中心とするグループ活動の発足し、次第に町政に女性が意見を出す形が整えられていった。

 

3.「保健婦の手記」にみられる吉田保健婦

(1) 吉田幸永保健婦と保健婦活動

そのような情勢下において、当町で働いていたのが吉田幸永保健婦である。彼女は、大正14年に世木村で三姉妹の長女として生まれた。人懐っこい性格で、世話好き、困っていう人を見るとよく手伝ってあげたりしていた。昭和16年から18年の間を世木村の青年学級に在籍し、そこで裁縫を学びその後、日本大学文学部に入学し、卒業後に保健婦資格を得るため大阪市厚生女学院へ入学、卒業。昭和25年4月京都府船井郡世木村の国民健康保険診療所保健婦に就任した。

昭和30年代当時の村は保健衛生上の問題も多々あり、準無医村(旧三か村で各村に一軒ずつ診療所があったが、奥まった集落によっては行き来が不便であった)で、夜間にしか医者が常駐しておらず、昼間はもっぱら保健婦がこの対応に追われることがよくあった。そのため、世木村の吉田保健婦の家には連日、村人が使いをよこして診療を頼むなど「医者の代わり」のようなことをすることが多くあった。このほかにも自らが患者宅や地域を回り歩いて家庭訪問をしたり、婦人会などの寄合の場に顔を出して啓蒙活動を行っていた。昭和30年、町に合併してからはK保健婦と一緒に、世木村を二つに分担し、あと吉田保健婦は五ヶ荘村を担当し、K保健婦は胡麻郷村を担当した。一応役割分担はしながら勤めていた。

この昭和30年代ごろの吉田保健婦は、とにかくエネルギッシュで使命感に燃えて次から次へと保健問題を挙げて、時には行政にぶつけてその矛盾を問いただす場面が多々あった。彼女の活動を知るうえで重要なのが「保健婦の手記」である。

 

(2)「保健婦の手記」と吉田保健婦

①「保健婦の手記」とは

 保健婦の手記とは、保健婦自らが投稿形式に雑誌へ掲載していた「保健婦の手記」、さらに保健婦自身が自分の半生を振り返って書いた回想録、さらに医療従事者、保健関係者が残した生活記録をベースにした書籍類である。手記の名称は、「保健婦の手記」であったり「保健婦日記」であったりさまざまである。

特性は三つ。まず当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものである。第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』『生活教育』『岩手の保健』、医学的、社会教育的啓蒙を目指した雑誌に、多く寄せられている。生活教育の会が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選作品は雑誌へ掲載された。この雑誌の購読者層は保健婦が多く、内容としても保健婦からの応援メッセージ、悩み相談、教育の現場のレポートなどがあり、保健婦相互間の連絡を兼ねていた。『生活教育』での「保健婦の手記」の特集は現存するもので昭和35年から昭和45年の間に集中的に描かれている。45年以降になるとその姿は雑誌上からはなくなり、「保健婦の手記」それ自体が単行本化されたり、雑誌とは別物として扱われるようになった。

 

②吉田保健婦の記事

 さて、この教育雑誌『生活教育』において吉田保健婦は「保健婦の手記」で5度の入選を果たし、手記が掲載されている。タイトルは「小さな足跡」(昭和35年)「一つの集い」(昭和37年)「保健婦十二年」(昭和38年)「合理化のしわよせの中で」(昭和40年) 「あるケースより」(昭和41年)である。

「小さな足跡」では農民のグループ活動をつくりその貯蓄精神を生かして改良便所の普及を図るものの、なかなかその普及には活かせず、集金したお金は別の目的に使われるようなってしまう。それでも、吉田氏はあきらめず、全戸の検便をして回虫の保有率を調べ、それをスライドで見せることにより啓蒙思想に努めるとともに、薬の飲み方を丁寧に教えて、改良便所の必要性を説き、見事に定着を見る。

「保健婦十二年」では、昭和25年から37年に至る12年を振り返って、その反省を三つの事例から紹介している。一つ目はジフテリアの子どもを救った経験。昭和25年当時日吉町(旧世木(せぎ)村)の医療機関は、村医として一人の医師がいたが、昼間は郡の病院勤めで、夜間町に駐在するということで、昼間の対応のほとんどが保健婦に頼らざるを得ない状況が多かった。急病人が出ても対応ができず、死なせてしまうことも多かった。そのなかでの経験に、ジフテリア感染症の子どもが出てきて、雪の中様子を見るために向かうのだが、医療行為を禁止されている身である保健婦にはどうしようもなく、そこで医師に連絡を取り、すぐに医師に診てもらうようにするが、医師もジフテリアの子どもの診察には限界を示し、郡の病院へ搬送することと、強心剤の注射をするようにとの指示を下す。そのため、吉田氏は子どもの父親とともに朝早くから家を出て、もちろん子どもの心臓に負担にならぬよう細心の注意を払いながら汽車に乗って病院を訪れ、医師に対応してもらうという措置を取った。このことにより、その子どもの命は取り留めた。この子どもが中学生になって元気でいてくれている姿を見るとホッとするという。次の事例では、役場から離れたところに暮らす吉田保健婦のもとに直々に助けをこうもので、子どもがひきつけを起こしたから診に来てくれという。ところが、その家に着くやその子どもの体温は42度を超えており、浣腸を繰り返すも便が出ず、そのまま息を引き取ってしまうという事態に陥った。吉田氏はその前の日から子どもが「ぽんぽんいたい」と言っていたのを、気にせずにいた無知な親たちに腹を立てるとともに、医療の手が及ばない山村地域にあって、疫痢に対応ができない自分のふがいなさに反省を込めている。さらにその次の事例では、農閑期での家族計画実施に触れるとともに、実際にお産に立ち会った際のことを述べている。骨盤位分娩の経験。逆子のために窒息して仮死状態で生まれた胎児を生き返らせるために必死になって取り組むその姿が描かれている。しかしながらこうしたお産に携わる時の緊張感はかなりの精神的な負担を要し、お産を終えて役場に着いて記録を付けるときの手の震えがあったと述べている。

以上が、現時点における『生活教育』の「保健婦の手記」に描かれた彼女の活動である。ここから読み取れるのは、単に衛生のためとして働いた足跡というよりも、村人ともにあり、その信頼を勝ち取っていった彼女の足跡を記すものであると考える。また、そこに描かれる農山村の現実、医療機関の不足、衛生面での無知、育児面に残る封建遺制とそれを取り除くことによって生じる新たな問題といったものを描き出している。これらの様子は、保健婦側からしか見られない現実ではないのかと考える。

 

4.農婦の手記と保健婦

(1)農婦たちの闘いと保健婦

①農婦たちの記録

 吉田保健婦が上記のような活動をしている中で、やはり気になるのがそれを受ける側がそれをどう思っていたのかということである。手記それ自体は、吉田保健婦の本意をくみ取る上では重要なものであるが、それは彼女の主観によって構成されるものであり、その周辺の証言、特に農村現場における証言はこの手記を客観的に見るうえで重要な資料と云えよう。

吉田保健婦の活動の上で重要なのが、彼女と対峙した人々のことである。彼女ととひざを突き合わせて保健婦活動への理解を示したのが、生活改良普及員の介入と日吉町の主婦層、特に若い妻たち、母親たちの存在であった。

 次にそうした女性たちの記録を見ていきたい。主として婦人問題研究会が発行していた雑誌『婦人問題研究』と、草川八重子・壽岳章子が編集を担当した『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』を題材にする。吉田保健婦との関わり、また船井郡の女性たちの活動については、婦人問題研究会が出していた『婦人問題研究』の第10号から44号までに度々散見し、代表者である壽岳章子氏らによって討議され評論されてきた。この資料の位置づけは、文字の如く婦人問題、女性の地位向上や差別に関するものを取り上げ、女性自らが意見を言える環境をつくることを目指したものである。

 

②農婦と保健婦と生活改良普及員

日吉町の一保健婦である吉田幸永氏と農婦との関係は、母子保健などの活動を通じてであろう。吉田保健婦は農婦たちのグループ活動を始めており、料理教室などを催すなど精力的であった。ところが、その料理教室の一場面で、栄養を優先して指導していたがために、農婦から一度家でやってみようとしたけれど姑の理解を得られずに、なかなかうまくそれを家庭の中で実践することは難しいという話が出てきた。吉田氏はのちにそのことについて深く反省することになるのであるが、そうした反省に導いた人もいる。

それが船井郡の生活改良普及員として園部の改良普及所に勤めていた田中友子氏である。田中氏の指導方法は独特で、まず住民の自主性に働きかけることを第一に考え、自らの指導というのは住民の背中を押してあげる程度にとどめ、何から何まで指導することはしない。見放しているようでいて指導はするが、それはあくまで住民側からその提案に乗ってもらう程度の物であり、自分からその生活を変えようとはしないというものだった。

吉田保健婦と田中友子氏との関係は、その思考的な部分でかなり大きな違いがあった。吉田氏は「住民のために」と献身的に動く傾向にあるが、田中氏は住民から動くことを待つ素振りをする傾向にある。そのため、しばしば田中氏は吉田保健婦の行動について、生活改良普及員の立場から「あなたのやっていることは官僚主義だ」と糾弾する。田中氏から見れば、吉田保健婦の行動は住民に対して上からの押しつけであるように見え、それはまるで組織の上から下への命令でしかなく、下からの救い上げることはしていないように見えたのであろう。いくら料理指導をすれど、地域住民側の意識を改革しない限りはそれが定着しないことを田中氏はわかっており、それを吉田保健婦にもわかってほしいことを願っての発言であったと考える。

田中氏と吉田保健婦が協働で行ったことは「一番言いにくいことを一番言いにくい場で一番言いにくい人に言う」というような、女性の発言権の強化であった。特に農家に嫁に来た女性たちにとって、そこでの暮らしは牛以下の扱いをされるのであるから、発言権は当然のごとく低かった。舅や姑はもちろん主人に対しても従順であることが美徳としてあったこともあり、従わざるを得なかった。しかし、田中氏と吉田保健婦はそれでは生活はよくならないと考え、根本的に意識から改革することをしようとした。結果的に、この取り組みは女性問題に熱心であった壽岳章子氏の目にもとまり、府下の女性運動のシンボル的な運動として位置づけられていくようになる。ことに、地域における女性の発言権の強化においては、町行政にまで広がろうとしており、また当時の京都府知事であった蜷川虎三の目にもとまり、「憲法を暮らしの中に」というスローガンの元、活動の強化が目指されるようになった。さらに、昭和30年代後半より社会教育の一環として取り組まれてきた、「ろばた懇談会」の開催にも影響を与え、女性と行政との話し合いというのもここから生じてくるようになった。

こうした背景の中で農婦の手記が描かれていくのであるが、そこには吉田保健婦と田中友子改良普及員双方のやり取りも含まれており、彼女らの提案と現実的な問題とを婦人会の中で話し合いながら、それをより具体的実践可能な状態までもっていくことにしている。

 

(2)女性の発言権と保健婦活動

①女性の発言権という壁

「保健婦の手記」でみてきた吉田保健婦の寄生虫撲滅のための活動を見てもわかるが、こうした活動資金のために貯蓄するという行為は、この昭和30年代当時、若い嫁たちにとっては未知の領域であったのだろう。そのため、その貯金をやはり自分たちが手にしたときに、女性として何がやれるのかというと、それは家のことよりも子のこととであったり、生活のためのものであったりするわけで、事業的なものに使うという考えはそこに結び付けられていない。いくら衛生思想を振りかざしたとしても、こうした貯蓄をしたことのない若い嫁たちの意識は改革できないのであった。

この他にも、吉田保健婦が関わる生活上の問題の多くは、女性の家における発言権の在り方をめぐるものが多く壁としてあり、保健婦活動をする中において発言権のありようをめぐっては活動の結果を左右する重要な問題であると位置づけられていた。当然、吉田保健婦はそれについて対処をしようとしたが、その対処の方法が上からの押しつけとして見られていた。これを打破するために、吉田保健婦は田中氏の助力を得ることになった。

 

①   意識をかえるということ

田中氏については先に述べたように住民の主体性を第一とすることから、まずは「言いにくいことを言」えるようになる意識改革を進めることなった。ただ、これは小手先だけでできる問題ではない。様々な批判を浴びることになる。特に男性側からの圧力はあった。また姑との関係性もあった。さらに言えば昭和30年代から40年代当時の生活というのは、それこそ兼業農家が増加していき、都市部に働き場所を求めることから、収入の面で農家の収入というのが補助的になってしまった。どちらかというと兼業側が主になりえる場合さえあるという。経済的基盤の揺らぎと男手の出稼ぎ労働、女手の日雇労働が日増しに多くなるという状態が出てくるようになる。そうなると、女性にいくら訴えかけようとしても女性が昼間ほとんど家にいないという状況があり、それに姑が家で幅を利かせている状態がかえって多く出てくる始末となってしまった。女性が経済力を持つことは確かに発言権の拡大につながると思われるが、実際家計を預かるのは主人であり、留守の家を預かるのは姑ら老人にかかっている。つまり、いくら経済力が外部雇用により小遣い稼ぎができたとしても、それは家にいるいないという問題がそこに発生する以上、根本的な女性の発言権の解決には至らなかった。育児などの方面がすべて姑によってなされると、それこそ姑に「頭が上がらない」という立場をつくってしまう結果になる。姑側も、嫁が子を置いて働きに出ていることを訝しむ声も出てくる。こうした少しずつの矛盾や軋轢が日増しに増大化していった中での発言権の確保というのは並大抵のものではなかった。

吉田保健婦と田中氏は昼間はそれぞれに仕事を抱え方々を飛び回ると同時に、夜は日雇から帰ってきた嫁たちを集めて、話し合いを重ねていった。夜遅くまで言いたいことをいうことへの意識改革への第一歩としてのことを行っていたと思われる。

 

(3)受け手としての農婦

①農婦の気持ち

 『自分をかえる―丹波船井郡生活改善グループの足あと―』の中に日吉町に住むS氏の記録で「「遠慮が美徳」から」という手記がある。

「(前略)婦人会の集りに生活改良普及員さんが指導に来て、料理講習会を始められた。匁からグラムにと尺貫法の切り替えで、まず第一に計ることから、科学的な基礎を教えてもらった。はじめて台秤や計量カップ、スプーンを使うことを覚えた。計ることは自然に身に付いた。料理実習をするとともに、もの言うことも勉強した。もの言うことということは、自分の思いを口に出すことで、それには自分の考えを持つこと。それはそれは、私たちにとって考えてみなかったことだ。

ただ黙ってうつ向いて仕事さえしていたら良い嫁やと言われていたのに、もの言うことの大事さを知ると、もう家の中も、村中もひっくり返ったのである。「グループの集りに行くと、理屈を言うこと覚えてきて、しゃあない嫁になる」とまで言われた。まわりの人たちからとやかく言われるのがかなんばかりに、ある日の会合に、毎月ためたグループの貯金を全部引き出し、お菓子やみかんを買っていった。普及員さんに「今日はなんですか」と驚かれた。「私達は今日で解散します」といって一日いろいろな話合いをした。そして帰りがけには「また集まろうな」と言った。こんなことを何度も繰り返していた。

その頃、婦人の集りでも始めは入り口ばかりに遠慮して座り、遠慮が美徳と思われていたものだ。私達は進んで場所づくりから始めた。少しづつ婦人会の雰囲気も変わってきた。まず、家の中から地域へと、いろいろなことにぶつかりながら、よくも今日までつづけてこられたと思う」。

この文章からわかるとおり、農婦たちは戸惑いながらも、それでも普及員である田中氏の指導の下で一致団結しながら話し合いを重ね。そのうえで「もの言う」ことを覚えていくようになった。「ものを言う」ことの訓練の場が料理教室であったと考える。これは田中氏だけでなく、吉田氏もそれに触発されて、この実践性に基づいた女性の発言力の復権に向けた取り組みを、直接的に行うのではなく、雰囲気を整えることから始めようとした。また、そうした雰囲気づくりを自然な形でやろうと心に決めた農婦らの動きというのは単に指導者による女性の発言権の強化という言葉に表されるものではない。どちらかというと、指導者はその場を整えたのであって、農婦自らがそこへ入り、その中で学び取りながら一つ一つの問題にあたっていったと考える。

この活動が部落の男たち、姑、舅らの理解を受けるまでには時間がかかったと思われる。これに関する記述が今のところ見つかっていないが、批判を受けながらも発言をすることの大切さを学んだ女性たちが、先の「ろばた会議」に現れるように、部落の集会に出席しそこで言葉を述べるように成長したのは、ひとえに田中氏、吉田氏の指導とそれに意欲を燃やした農婦らの活動が大きな影響力を持っていたことは間違いない。そうした意識改革が大切な活動の一つとして位置づけられる。

 

②保健婦の失敗と農婦の意見

 昭和53年に発行された『婦人問題研究』第43号の中に吉田保健婦の記事がある。特にその農婦との関わりを描いた一文がある。

 「(前略)まあ卒直にいって、それまでの町の保健婦の仕事と言えば、厚生省からの通達、あるいは府の仕事をこなすことにかかりきりなんです。逆に言うたら、それですんでるとゆうところがあります。赤ん坊の検診がどうのこうの、妊婦の健康診断がどうのこうのでおしまい。しかもそれもまことに表面だけのことに終わってしまうのです。勉強会をして、離乳食がどうこう言うても、いくら一所懸命に指導をしましても、その婦人たちに次に会って聞いたら何もやっていないのです。なぜだろう?と思いつゞけました。私はこんなにもきばっているのに、みなはなぜ言うことを聞いてくれないのだろう?それが私の悩みでした。

 (中略)私は、赤ん坊に重湯をのませるとき、その水の中に、コブを入れて栄養をプラスしなさいというように言うてまわったんですが、それがうまくゆきませんでした。若嫁さんのお姑さんが、重湯のだしにコブを使うなんてもったいないと言って、頭から否定されました。理論には間違いない話が、まるで受け入れられない、それはなぜだろうかということを一所懸命に私は考えました」

 吉田保健婦のこの文章はだいぶ後になって書かれたものであるが、その指導時における悩み。農婦たちにいくら勧めても実行に移されないもどかしさというものを描いている。とにかく、この当時における女性の地位がそれほど低く、意見を言える立場にいなかったことがその背景にあった。

 保健婦側からみてもこのように女性の発言権の低さというのは目に見えてわかり、保健婦活動においてそれが障害になることは多いものであったのだから、それを聞いていた婦人たちも家庭でそれを実行するためにはかなりの勇気がいるものであっただろうし、批判を浴びるものであった。

 そのような中で田中氏と出会い、生活改善グループ活動を進めていく中で、「言いにくいことを言う」をスローガンに、単に保健婦がすべてを指導するのではなく、受け手である農婦たちの言葉を引き出しそれについて検討をし、実行をしていったのである。それからの活動は目に見えて隆盛を極めることになる。マンガン中毒事件をきっかけに、マンガン鉱山従業員のじん肺訴訟について取り組みを行ったり、産業廃棄物の処理の改善をめぐったりして、住民の意見に毎回耳を傾け、「町の保健婦」としての職掌よりも、「町民のための保健婦」に、彼らの要求を汲んで様々な取り組みに従事することになった。当然のことながら、町政からの風当たりはかなりきついものであった。仕事をするにしてもやはりお金の面で補助を受けないといけない場合が多々あったため、それを町長に掛け合ったり、方々に電話をして願い出て少しでも住民の要求を通すように心がけるというものを行った。このおかげもあって、吉田保健婦が単に指導として一本化された保健婦というのではなく、町民の中に入り彼らの言葉に耳を澄ませる多様化された保健婦へと変わっていった。

 

まとめにかえて

 本報告は吉田保健婦という一人の保健婦、いや人間が農村生活の中で果たした役割をどう担っていったのか、また地域住民、特に農婦たちがそれをいかに見ていたのかを「保健婦の手記」「農婦の手記」双方から明らかにし、生活変化の上での保健活動の在り方を描いてみた。

農婦たちの掛け合いのなかで、生活、特に保健に関する動向がどう変化していったのかを中心に見いくことにより、従来の民俗学が描いていた単調な変化の様相のとらえ方では見られなかった心情変化などの細かい伏線、複雑な関係がそこにあることを確認できた。

本発表で出てきた、吉田保健婦をはじめ田中友子氏、農婦たちの関わりでもわかるように、一つの生活変化、保健を暮らしの中に反映するためにはどうしていたのかということを考えた時、それは保健婦だけの問題ではなく、多様な人間関係の元で有機的で動態的な生活模様がそこにあり、相互間に語らいを含めながら双方間の中で達成されたものであると考える。保健婦側、生活改良普及員側だけが保健活動に関与していたわけではない。従来民俗学では、保健婦の研究は少ないものの専門職業、産婆や助産婦、介護士という職業を描くとき、どこかそれをその職業の大きな役割を前面に出し、そこにおいて生活はどうあったのかを問うてくるものが多く見受けられる。しかしながら、そうした一方向的な影響が生活を構成していたわけではない。先にみたように、農婦と保健婦、生活改良普及員などの相互間の関係性が基調となる。これを考えるに、従来の民俗学における専門職業の扱いにはもう少しその内面性を明らかにしていかなくてはならない。

 本稿が目指すところは、生活研究の視座に立ったものであり、研究視点によってはこの稿の見方は大きく異なるはずだ。日本民俗学会で出た意見として多かったのは、女性史という立場に置いての意見であった。生活そのものというよりも、生活を支えた農婦、女性の地位向上、発言権の復権の在り方を指摘するものであった。本稿の内容が女性の発言権の強化を図った吉田氏、田中氏の活動をピックアップしたことによるものであろう。筆者の意向としては、女性の発言権の復権は一つの方法であって、それによって生じる生活変化へのまなざしにこそ問題点があるのではないかと考える。

 昨今、社会生活は大きな変化をその都度見せている。その社会生活の変化を経済や物流で語ることは簡単であり、その政治性についても同様である。だが、生活の本質は、生活者自身にあり、生活者の視点にも目を向けていく必要性がある。決して変える側の立場だけの意見で集約されるものではない。これは現在の保健師の地域における保健活動の在り方においても同様である。役所や保健所、県の指導とセクト主義的案立場に立ち、その活動の再分化が進んでいる昨今において、保健師が行う事業は地域を視点においても、そこに実際する生活というよりも、統計データ、事業目標の達成にこそ主眼が置かれている、いやおかされている。役場などは予算決議における予算目標に沿った計画の、事業の運営と達成にこそ主眼がある。保健師がいくら現場に出ようとしてもその機会は限られ、地域のことを考えようにも多忙により、そこに限界を感じる保健師も多い。これは役場の在り方そのものに問題があるが、ただ役場だけにあるのではないと考える。役場という場に「言いにくいこと言う」という視座が足りていない。それは個々人が発言することを促すのではなく、保健師の集団性の中でこれを考える必要性が問われる。さらに言えば、保健師が部署ごとにその部署の仕事に追われて、横の繋がり、課を超えての繋がりができていないことに住民サービスの在り方や、地域全体の状況の把握ができていないことにある。これを解決するうえでも、少し前の保健婦の活動を顧みて、それこそ吉田保健婦と田中改良普及員との関係性を再確認するべきかもしれない。

 以上、民俗学的な学問視点と、現在の保健師の在り方を底にどう結び付けるのかを考察として述べた。保健師の在り方については日本民俗学会の中では触れていない。いや触れずにいた。保健師の問題というものを未だ民俗学は理解が足りない部分が多々あり、これを理解するには時間が必要だと思われたからだ。まずは保健婦という存在、その記述、地域とのかかわりを周知し、そこから見えてくるものを提示することにこそ意義がある。本稿はそうした民俗学的な学問視点と保健師の現状を顧みるために加筆した。

 

参考文献

草地康子・壽岳章子編『自分をかえる―丹波船井生活改善グループの足あと―』(出版委員会 1998)

草地康子・李順連編『丹波マンガンじん肺と女たちの軌跡』(NPO法人丹波マンガン記念館 2013)

田中宣一編『暮らしの革命 戦後農村の生活改善と新生活運動』(農文協 2011)

森島允子「丹波農山村における地域組織―京都府日吉町の場合―」(『人文地理』25巻1号 1973 71頁~94頁)

山中健太「千草町いずみ会の地域的展開と「生活改善」の受容」(田中宣一編『暮らしの革命―戦後農村の生活改善事業と新生活運動』 農文協 2011 328頁~351頁) 

山中健太「ある保健婦の足跡から見る地域保健活動の展開と住民の受容」(『佛教大学大学院研究紀要 文学研究科篇』第40号 2012 109頁~124頁)

山中健太「戦後の生活変化の受容と生活改善」(八木透編『新・民俗学を学ぶ-現代を知るために』昭和堂 2013 233頁~237頁)

吉田幸永「保健婦活動の公的責任(1)」(丸山創・山本繁『公衆衛生実践シリーズ4 自治体における公衆衛生』医学書院 1987 1頁~15頁)

吉田幸永「丸岡秀子先生とわたし」(丸岡秀子『わたしの結縁帖 付・ふれあった十三人の追想』「わたしの結縁帖」刊行委員会 1991 112頁~117頁)

生活教育の会『生活教育』 昭和35年4月号から42年4月号 

日吉町役場『日吉町政だより』 昭和38年10月号から昭和55年12月号

婦人問題研究会『婦人問題研究』10、16、33、43、53号(昭和47年から昭和55年)

 

報告を終えて

 本報告を終えて一つはっきりしたことがある。この故吉田保健婦の活動は保健婦個人から垣間見えるものでは決してありえないことである。それは地域関係者、特に田中友子生活改良普及員との出逢い、そして地域の婦人との付き合いの中で吉田保健婦自身が成長していった。つまり、吉田保健婦は一つのきっかけであり、多くの人との関係性の中で語られるべき存在であろうということだ。

 今後の方針として、吉田保健婦が地域で行ってきたことについての住民の声についてまだ聞き取り調査がはっきりしておらず、これをできるだけ抑えておきたいと思う。また、まだはっきりとしてはいないが、マンガン鉱山の件、産廃の件などの所謂行政問題についても加味しながら相対的に、地域と保健婦の在り方、そして関係者と生活の変化について検討していきたい。

 調査を通じ南丹市日吉町郷土資料館ならびに吉田保健婦関係者各位には、ご協力を賜り、また多くの証言を得る機会を得たことに感謝し結びの言葉にかえたい。

 

 

最後までご一読いただき、またご協力賜りまして誠にありがとうございました。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。

2013年11月19日火曜日

京都民俗学会年次研究大会での発表原稿完成

  ものすごく荒い文章になってしまいましたが、「保健婦の手記」を民俗学的にどう位置づけたらよいかを考えた上での文章化をしてみました。
  いかんせん即席めいたところがあるので、今後はこれを基軸に少しほかの資料もつき併せて論じていくべきかなとおもっております。
 
平成25年11月19日

 

「保健婦の手記」からみる民俗生活との関わり

 

1.はじめに

(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い

農山村僻地へ調査に赴くと、その都度様々な民俗行事や習俗と出会うことがあるが、そうした習俗の変遷について歴史的流れを追う中で、生活の推移についても触れることが多い。そうした生活の推移において民俗の変化を語るとき、やはり基準となる物質なり経済的な動きを基準にそれを表すことが多いが、人々の生活はそう規則的なものではない。民俗学での変化の諸相は、そうした人々の生活の動態的なあり方についての分析が足りない。

 そうしたことを考えていた折に、兵庫県宍粟郡千種町でとある保健婦と出会った。彼女は地域に入り地域住民とともに彼らの視点に立った方策をたてながら、地域生活に深く関与し、民俗に対しても時に衝突し、時に融和しながらそれこそ段階を経て生活の向上を目指した活動を展開していった。民俗学の分野において保健婦という医療従事者のことを分析した類のものはあまりない。しかし、保健婦が行った事、地域を見て行ったこと、そしてそこで住民と交わした言葉や行動はそれこそ民俗の変化に深く関与したとみていいと思う。この対応の在り方をのぞくことこそ、地域生活の向上化のなかにおいて、民俗生活がどのように見られ、どう感じていたのかという動きを具体的に見ることが可能となるのではないか。

 本研究の動機はそうした保健婦らが地域と関わり、民俗生活と関わる中でどういったことがいえるのか、そういうところに注目してみたい。また、本研究の根幹となるのは、そうした保健婦らが記した地域との交流録、「保健婦の手記」の存在である。この手記に描かれる生活のありようは、それこそ生活の現実性を見ることになる。手記はそうした意味においてより現実的な問題として新しいものと民俗がどう関わり交わってきたのかを感じることが出来る素材である。本発表ではその手記がどのようなものであり、民俗との関わりにはどういったものが浮き彫りになるのかを述べてみたい。

 

(2) )研究史

 保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。

民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 1942-1997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における現実について触れられていない。

 本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということを明らかにしたい。

 

2.保健婦の存在意義

(1)保健婦とは

保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、(日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』)「保健師は、(中略)「人として生きること・健康であること」が保障されるように、生涯を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。(後略)」と言える。言い換えれば身体的健康と社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。

本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。

 

(2)保健婦の歴史的背景

 戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。

また一方で、当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には健民健兵政策から、国策としての保健婦事業が推奨されてくる。加えて無医村への対策として保健婦が置かれるケースも多くあった。

戦後における保健婦の事業は、GHQのもと社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるためにと繋がっていくのである。

但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割は現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。

 

(3)保健婦の視点から見た地域

 では保健婦は地域生活についてどのような視点で見て、どのようにして向上をしていったのであろうか。保健婦の役割から言えば、それこそ地域に保健衛生を根付かせることが第一となるわけであるが、それをするためには地域生活の機微について調査し、生活の改善の必要性があればそれを改善させ、結果として保健衛生を地域根付かせることが重要となってくる。保健婦は、地域という枠組みということを念頭に置きながらも、各家庭について詳細な調査を行っている。後述する「保健婦の手記」に出てくるのはそうした各家庭の一コマが多い。地域全体を俯瞰することも確かに重要なことではあったのだろうが、保健婦にとってそうした俯瞰するに当たり一軒一軒の家庭がどのような背景のもとにあり、どういう位置づけにあるのかということを主眼にする必要性があった。

 そして、保健婦にとって地域とはそうした個別事象の集りであり、統計的に見た場合、この地域ではどのような対応策が必要なのかを垣間見る視点であると位置づける。保健婦にとって個別事象がまずあって、その上に全体性を見たわせる視点があるといってよい。

 当然のことながら、そうした各家庭をバックにしてまた地域を見ていくに当たり、その地域の民俗に触れる場面は多くある。保健婦という立場は、医療従事者の中でも長期的に地域という場に依拠することが多い。そうした場合、民俗との接点は自然と多くなってくる。こうなった時に、やはり民俗との摩擦があることは必須である。また逆に、民俗を利用することも中にはある。地域の民俗の考え方をいくら頭ごなしに否定してもそれは、単なる摩擦に終わる。それであれば、地域生活の向上は図れない。そこで保健婦は、地域生活における民俗を利用し、地域生活に融和していこうとする。この繰り返しが保健婦が地域の視点を維持できた理由である。

 

 

3.「保健婦の手記」を読む

(1)「保健婦の手記」とは

①「保健婦の手記」とは

 「保健婦の手記」とは、家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしを自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の性格

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

 

(2)『生活教育』と「保健婦の手記」

 「保健婦の手記」は多様な雑誌や著書として出回っている。それらそれぞれに雑誌の意図や著作の意図があり、その一貫性を図ることはできない。先に示した性格は大きな意味において言えることであって、すべてこれに当てはまるものがあるかというと微妙なところがある。雑誌『公衆衛生』や『保健婦雑誌』というようなものであれば、それこそ保健婦の実情を描いた手記が出ているが、どこかそれは保健婦個人の感じてきたことというよりも、事業方針における保健婦の報告的な書き方でしかない。実のところ、『公衆衛生』にしろ『保健婦雑誌』にしろ、まず事業があって、その枠内で保健婦がいるということであり、保健婦は事業の一つのコマに過ぎない。人間的というよりも機械的にその報告が手記という形で処理されているに過ぎない。ところが、『生活教育』という雑誌はその傾向からは全く異質なものがある。

 『生活教育』は昭和32年、生活教育の会の丸岡秀子、国分太一郎、金子光らの手によって編集された雑誌である。顔ぶれを見てわかる通り、この雑誌の意図するところは、社会教育的な側面が大きい。特に生活綴方運動、生活記録運動の流れをくむ人々がこぞってその編者となっている時点で、単なる保健婦の雑誌というものではない。その記述方針も、事業内部の保健婦という位置づけから、地域の人びとにふれあう保健婦という位置づけになっている。

『生活教育』は、保健婦の人間性を追求している。本研究が目指すところは、より具体的な生活であり人間の動態的なものとしてである。『生活教育』における「保健婦の手記」はそうした意味において、資料的にも価値があり分析することによって、保健婦と地域住民との関係性を知ることが出来る。

 

4.「保健婦の手記」に描かれる生活

(1)保健婦が見た生活

 保健婦と「保健婦の手記」の概要を見てきたように、保健婦と地域住民、そしてそこに息づく生活との接合点はかなり密接であることが言える。ここでは、より具体的にその保健婦の活動を「保健婦の手記」から取り上げて論じていきたい。勿論、用いる資料は『生活教育』の「保健婦の手記」を中心に述べていきたい。

 保健婦にとっての壁とはまさに、地域における既存の民俗であったりする。これを近代医学と民俗の対立ととらえる人もいるだろうが、実のところこの対立的なものはもっと別の方向から言えると思う。地域に入って保健衛生を普及させ、健康的な生活を作っていこうとする思いは、保健婦だけが持っていたわけではない。地域住民もまたそれを持っていたと考えていい。『岩手の保健』で乳幼児が次々に死んでいく中で、泣く泣く子どもの亡骸を抱き寄せる母の姿からすれば、子どもを死なせることはそれこそ辛いものであるし、病気にかかっても病院へやれないという思い、つまるところの病院へ行かせてやりたいし行きたいと思っている気持には変わりがないのだ。だから、単に近代的な保健衛生と民俗的な習俗が歯車として対立しあうものであったかというと全く異なる。ここでいう民俗という壁というのは、地域住民が「超えたいけれど越えられない壁」としてのアイデンティティーの産物といってもよい。伝統的生活を固辞しようとするのではなくて、伝統的生活から抜け出せない自分たちがなぜいるのかを誰かに気づかせてもらうことを求めているきらいがある。保健婦は彼らの声を聴き、彼らの想いを汲みながら、壁をより低くしてやることが必要とされるのである。

 

(2)保健婦が見た現実

 手記の多くに散見されるのが、嫁の地位の低さによる衛生指導のゆきわたらなさである。手元にある資料①と②をご覧いただければわかる通り、保健婦が関わる多くの仕事の中で母子保健に関わる仕事は大きい、そのために若い嫁や母に会い、それを指導する機会があるが、ところがそうした指導の中において一番のネックとなるのが、嫁の地位である。①は山形県、②は岩手県の農村の事例である。①は受胎調節(家族計画)指導において中絶をしようとする母(嫁)を想いとどませるために説得するという場面、②は出産したはいいが満足に医療の恩恵を受けられないままに、死んでいくわが子を前に泣き笑いをする母(嫁)の姿をえがいたものである。

 この二つの手記に共通するのが「嫁の地位の低さからくる夫や姑への気兼ね」である。①では避妊していたにもかかわらずメンス(月経)がないがために妊娠したのではないかと慌てる嫁が、夫が妊娠を理解してくれないで別の男の子ではないかと疑われることにひどくおびえている。そして一人でこっそり中絶をしようとするのであるが、保健婦によって中絶による母体の負担を説かれ、それで思いとどまるというものであるが、ここで重要なのは、これまで戦中の国策の「産めよ殖やせよ」の反対で、戦後は「産むな殖やすな」というようなものが飛び交うようになり、世間的に中絶をよしとする流れがあること、さらに世間体として子どもを多く授かることについて異論が飛んでいることから、子だくさんをあまりよしとしない風潮があり、そのための受胎調節だと思い込んでいる節があるということ。そしてこれを信じている夫婦だからこそ、そこに子を授かることを極度に嫌がり、夫がいぬまに中絶をしようとする嫁の姿があるというのが常であることなどが背景としてある。ここで嫁の地位が低いというのは、そうした夫婦での理解が曲がりなりにもあるにもかかわらず、夫へ妊娠したことを世間体から告げられないこと、隠れて中絶をすることで今の状態をキープしようとしていることが挙げられる。

 ②は乳児死亡率が昭和30年代当時最も高かった岩手県の事例で子どもが次々亡くなるなかで「泣き笑い」をしながら「命ッコがなかった」と諦めをしてしまう嫁と、「弱かった」という風に言って諦めさせようとする姑の会話があるのであるが、これもまた嫁の地位の低さを象徴しているようであり、産むことに対してたくさん産めばそのうちの何人かはまともに生きるというような風潮がその集落の多産多死を物語っていることになっている。ここで重要なのは、「泣き笑い」をする嫁と諦めを促す姑とのやり取りで、産んだ子どもが誕生日も迎えずに亡くなっていく姿を諦められずにいる嫁がいて、ただそれをあきらめさせないと次を産んでもらえないとして叱咤激励をする姑との関係性がその家族もさながら地域全体をのみ込む、多産多死を容認する動き、それでいて「泣き笑い」ながらも姑に従わざるを得ない「子を産むために迎えられた」嫁の実態。こうした嫁と姑の在り方というのは全国的に見られるものであるが、こうした多産多死の場においても姑に意見を言えない嫁の実態があることがうかがい知れる。

 では、こうした背景はいかにしてできてきたのだろうか。②の場合、『岩手の保健』の中に、嫁の地位の低さというのは、如実に出てくる。子どもを授かることというのはそれこそ多く産めばそれがいいという風潮がある。姑の言うように「命ッコがなかった」というように諦めて、次の子を早く妊娠することに期待する。しかしながら、普段の嫁の労働は激しく、夫の出稼ぎによって農業の人員は嫁と姑らの手に任され、妊婦だの病人だのといって横になっていることは許されない。「稼ぐ嫁」が求められ、それによって妊娠してもそのまま働き続けるから母体に負担がかかり、早産を招き栄養状態の悪い中での育児、稼がなければならない経済事情などから次々と死んでいく、そしてそれを追いかけるように次々生んでいくということの繰り返しであった。嫁の発言権は許されず、母体がいくらボロボロになろうと、それを行使することを要請される。保健婦は彼女らの状況をみながら、受胎調節指導を行うなどして、なんとか母体の安全をというのであるが、夫が出稼ぎから帰ったら、労働でくたくたになった体を横たえている嫁にせまり、性行為を要求する。いくら受胎調節をしても、それが定着しないのは、嫁だけに指導を与えているせいではないかとさえ思う。

 

(3)受胎調節をめぐる嫁の地位と姑

 先の述べた事例は、①と②ともに母子保健をめぐる問題として保健婦の前に立ちはだかったものであるが、これを分析する中で、「嫁の地位の低さ」「姑の無理解」「受胎調節の在り方への無理解」そうしたものが散在していることがわかる。これまで、保健婦研究の中では結果論として、受胎調節は成功し各地に広まったとなっていたが、実のところこうした摩擦が各方面であったということがわかっている。こうした保健婦事業を行うにあたり、嫁と姑の関係性というのはかなり重要なファクターを占めてくる。地域によってそれらを保健婦がどのようにクリアするのかには違いがあるが、まずは家庭訪問でこうした現実を知り、その上で地域全体でこれをどうとらえるのかを考え、婦人会などの場で嫁や姑らに声をかけていくことから始めていく。

また、受胎調節指導がこのように積極的に出てきた背景には、夫の出稼ぎ、留守宅を任された嫁への過重労働、それによる早産で虚弱児が生まれ、そして死んでいくという現実が一つの流れとしてある。これをいかに断ち切るかが問題点であり、そこに姑の理解も加えていく必要性がある。①と②の事例では触れていないが、実のところ、保健婦は直接姑に指導を行う機会は少ない。これは嫁自身が、それこそ自分の力でもってこれをクリアしていくことを望んでいるからであり、その自主性に欠けている節が多くある。これは社会教育的場側面からの女性解放運動の中からも問われていることであるが、保健婦は内在的な問題を内部の人間から積極的に変わってくれるよう手助けするのみで、直接的な手立てをしようとはしなかった。

 

まとめ

(1)「保健婦の手記」から見えてくるもの

 保健婦の活動を「保健婦の手記」からみていくと、そこには保健婦事業では映しきれない、様々な難題があることが理解できる。そうした難題のなかに民俗の存在もある。出産の問題、嫁姑の問題などなど多岐にわたる問題がそこにある。これを封建遺制としてしまうのは簡単だが、実際地域の人々は健康問題をどうにかしたいと願いながらも、それに抗おうとしながら、あきらめていたように感じる。封建遺制という遺制としての在り方よりも、生活の習慣化によって慣らされた諦観があったと考えてよい。そうした中において、保健婦はこの諦観をどうにかするべく、力を注いでいった。

 

(2)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性

これまで医療者に対する研究は民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないか。

2013年11月9日土曜日

「保健婦の手記」からみる民俗との関わり(平成25年11月9日現在)


平成25年11月9日

 

「保健婦の手記」からみる民俗との関わり

 

1.はじめに

(1)保健婦、「保健婦の手記」との出逢い

農山村僻地へ調査に赴くと、その都度様々な民俗行事や習俗と出会うことがあるが、そうした習俗の変遷について歴史的流れを追う中で、生活の推移についても触れることが多い。そうした生活の推移において民俗の変化を語るとき、やはり基準となる物質なり経済的な動きを基準にそれを表すことが多々ある。しかしながら、人々の生活はそう規則的なものではない。様々な要因を抱えながら生活を変えていくし、その都度民俗も形を変えざるを得なくなる。民俗学での変化の諸相は、そうした部分、人々の生活の動態的なあり方についての分析が足りないように思う。

 そうしたことを考えていた折に、兵庫県宍粟郡千種町でとある保健婦と出会った。彼女は地域に入り地域住民とともに彼らの視点に立った方策をたてながら、地域生活に深く関与し、民俗に対しても時に衝突し、時に融和しながらそれこそ段階を経て生活の向上を目指した活動を展開していった。こうした、動きというのは実のところ保健婦研究の中でも明らかにされていない。ましてや民俗学の分野において保健婦という医療従事者のことを分析した類のものはあまりない。しかし、保健婦が行った事、地域を見て行ったこと、そしてそこで住民と交わした言葉や行動はそれこそ民俗の変化に深く関与したとみていいと思う。この対応の在り方をのぞくことこそ、地域生活の向上化のなかにおいて、民俗がどのように見られ、さらに新しいものにかわることを地域住民はどう感じていたのかという動きを具体的に見ることが可能となるのではないか。

 本研究の動機はそうした保健婦らが地域と関わり、民俗と関わる中でどういったことがいえるのか、そういうところに注目してみたい。また、本研究の根幹となるのは、そうした保健婦らが記した地域との交流録、「保健婦の手記」の存在である。この手記に描かれる生活のありようは、それこそ歴史的な大きな流れからは捨象されてきた粗末なことかもしれない。ただ、そうした生活の具体性の中に私たちが生きていることには間違いなく、それこそ生活の現実性を見ることになる。手記はそうした意味においてより現実的な問題として新しいものと民俗がどう関わり交わってきたのかを感じることが出来る素材である。本発表ではその手記がどのようなものであり、民俗との関わりにはどういったものが浮き彫りになるのかを述べてみたい。

 

(2) )研究史

 保健婦の歴史的研究については、大国美智子氏の『保健婦の歴史』や川上裕子氏の『日本における保健婦事業の成立と展開-戦前・戦中期を中心に-』の中で保健婦事業の成り立ちと経緯を述べている。また、実際に初期の保健婦として活躍された高橋政子氏が『写真で見る日本近代看護の歴史 先駆者を訪ねて』で具体的な人物を挙げて保健婦の成り立ちについて述べている。さらに、高橋氏は自らの半生を振り返り『いのちをみつめて ある保健婦の半生』で、初期の保健婦たちの様子を自身の体験として記している。

民俗学での研究では、木村哲也氏の『駐在保健婦の時代 1942-1997』がある。木村氏は、高知県の駐在保健婦制度とその時代的背景、実際の活動展開、歴史的位置付けについて詳しく論じている。歴史的研究ではあまり注目されなかった保健婦の実態を丹念な聞き取り調査と事業的背景との接合点から明らかにしている。しかしながら、これらの先行研究は事業史や個人史をもとに描いてはいるが、地域における彼らの活動がいかに受け入れられていったのかという肝心な部分がない。

 本発表で注目したいのは、事業史的な流れとは別に現場における保健婦と地域住民との生々しい対話の中で、保健婦がいかに受け入れられていくのか、保健婦の考え方や生活指導がどのようにして受け入れられていくのかという現実を垣間見てみたい。そこで用いるのが、「保健婦の手記」である。「保健婦の手記」に対する研究はほとんどない。「保健婦の手記」がどのようなものであり、どのような役割を果たしていたのかということについては研究が皆無に等しい。しかしながら、自分史という中で保健婦自身が自分と住民との交流録を描くことが多い。「保健婦の手記」はそのような中において保健婦の事業推進に伴う実際的な動きを見ることが可能な資料となっている。

 

(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【1】

助産婦のことについては、出産の変遷の場で論じられることはあっても、保健婦はそうした論じられ方はしない。しかしながら、保健婦活動は母子保健という立場に立てば、産婆や助産婦よりも、母と子に対してかなり密に連絡を取り、妊娠前後から出産後にいたって、子どもの成長などを見届けるなど、かなり長いスパンにわたり関与している。助産婦などが一時の活動であるのに対し、継続的な関与として保健婦が位置付けられる。

また、母子保健に関わらず、保健婦活動は多岐にわたり、健康、衛生の教育普及に始まり、公衆衛生という分野にとどまらず生活支援など身の上相談もこなす。ある意味地域のアドバイザーとしての側面が強い。それこそ、地域生活に与えた影響は大きいものであると考える。

これまで医療者に対する研究は前近代的な伝統生活を対象としてきた民俗学の範疇からは除外されてきたが、しかしながら地域生活に隣接し住民とともに保健衛生を考え、それについて指導を行ってきたこと、かかわりを持ってきたことというのはそれだけで民俗生活に大きな影響を与えたものといえる。保健婦の関わり方はまさにその部分では生活に密接に関与しているといえる。そうした中で、「保健婦の手記」という保健婦と住民との関係性を記すものを分析することは、より具体的な生活の中における民俗を垣間見ることが出来るし、それを変えようとした保健婦側がぶつかった民俗生活との摩擦がよくわかる。その意味で民俗学における研究の可能性は格段に広い分野ではないかと思う。

 

2.保健婦の存在意義

(1)保健婦とは

保健婦は、時代ごとに名称が変化し、その事業目的によりそれが目指す方向性が異なっているため、一概にこうしたものという定義はできない。現行の「保健師助産師看護師法」の法規を歴史上のすべての保健婦という対象に当てはめることはできない。しかしながら、仮に定義をするならば、日本看護協会監修の『新版保健師業務要覧 第二版』によれば「保健師は、常に、人々ともに疾病を予防し、人々が主体的に健康な生活ができるように支援してきた。特に、貧困層が生活する地区には重点的に予防活動を行い、さらに健康な人も病気や障がいを抱えた人もすべて、「人として生きること・健康であること」が保障されるように、生涯を通した人々の健康と幸福を実現することを使命としてきた。社会が予防的看護を必要とし、個人や集団の疾病予防と健康管理の専門家として保健師が誕生したのである」と言える。言い換えれば身体的健康を守ることもさながら、社会保障面における社会的健康を守る専門家が保健婦と言える。

本研究においての保健婦は戦後から昭和50年代にかけての保健婦を指す。また、保健婦の歴史は戦前からあるものの、戦後のそれはGHQの政策等により大きく変更がなされている個所があり、その仕事の在り方もGHQの影響を受けている。但し、木村氏が指摘しているように、戦後の保健婦事業はこのGHQの政策としてのそれと、戦前からあった訪問婦を基とするような社会福祉事業としてのそれがせめぎ合っている状態であった。そのため、事業の方針としてのそれと、経験則としての現場の方針は異なる部分がある。事業史としての保健婦をここであらわすとは思っていない。あくまで現場の動きとしての彼らの実情に迫りたい。

 

(2)保健婦の歴史的背景

 戦前の保健婦の事業史については、大国氏や川上氏の著書が詳しいが、その概要を簡単に整理すると、戦前期の保健婦事業は公衆衛生の必要性からというよりも社会的困窮者における救済的な側面からのスタートが大きくある。その最たるものが訪問婦事業である。この事業は様々な団体が担っていたが、現在の家庭訪問の基本を作っていった事業といえよう。それまで、役場や篤志家のもとに訪れなければ救済できなかった貧民の現状を、逆に一軒一軒訪問しそのほどを知り、それに応じた手当をしていくということからスタートしている。当初は都市部の人びとを対象としたものであったが、時代経るごとに農山漁村部へと広がりを持って行く。事業の在り方も事業を形成する団体の方針もその都度変化していくが、依然としてあったのが保健婦というものは、公衆衛生もさながら社会事業としての性格が強かった。

また一方で、こうした動きに看護事業が加わっていく。当時亡国病としてなっていた結核の蔓延に伴い、伝染病予防のためにこれらから人々を守ることを使命として、その予防、隔離などを実施していった。この背景には富国強兵策からものがあり、結核から大切な兵士を守る国策としての保健婦事業が推奨されてくることが一つあり、これまでの社会事業と合わせて、そこに公衆衛生に関わる領域が付与していくようになっていった。

戦後における保健婦の事業は、GHQのもと事業が公衆衛生方面に傾倒していく。これまでの社会事業的な性格から、公衆衛生看護の専門性を追求したものとなり、結核予防もさながら、各種伝染病、寄生虫駆除など様々な公衆衛生領域の事業を中心に展開していくようになる。いうなれば、その教育方針が単に富国強兵策や貧困者対策の国策のそれから、国民の健康を向上させるための、公衆衛生看護的側面へと繋がっていくのである。勿論、社会保障面における保健婦の事業も展開はしていくが、それは社会福祉面に移譲されるようになり、保健婦は戦前のそれよりも看護に特化した形に動いていくような形になっていく。

但し、こうした事業の流れ、戦前から戦後にかけての経緯が、全国各地津々浦々の保健婦にすべて適合していたかというと、「保健婦の手記」を見る限りにおいて、それはまた別の次元で考える必要性があるように思う。事業史的な流れとは別に、地域史のなかにおける保健婦の位置づけや役割はその地域の特性、現場の保健婦の性格や裁量という部分によって様々な形を成している。こうした歴史的背景と現実的な保健婦の対応の在り方をちゃんととらえなければ、実のところ保健婦が地域で何をしていたのかということはわからない。本発表では、今一度事業史レベルの話からもっとマクロな部分における現場の裁量としての保健婦はいかなるものであったのかに着目することにしたい。

 

(3)保健婦活動における役割

 保健婦の事業的背景について述べてきたが、ここで保健婦の活動は具体的にどのようなものであったのかということについて、少し触れておきたい。公衆衛生看護という方面における活動が保健婦の活動であるという理解がある一方で、保健婦は戦前と同じく家庭訪問において訪問宅の生活に触れ、その生活の改善策、それこそ保健医療を根付かせるための活動を展開していく。つまり、先に記したように農家の生活向上なくして、保健衛生の向上は成り立たないという考え方が主流であった。そのため、公衆衛生活動をするにあたり、家庭訪問を通じてその地域、その家庭の事情をこと細かく調べ、そのうえでそこに似合った生活の改善策を模索し、改善を実行するということも役割の一つとしてあったと考える。

 これまでの研究史上では、こうした保健婦と生活との関係性についてはこと細かく触れていない。それこそ事業的な流れ保健婦とその地域事業との間でのやり取りしか描かれていない。保健婦の実際の活動について描写する機会というのはほとんどなかったといっていい。しかしながら、事業展開をしていくに当たりその基盤としての、家庭訪問がどのような役割を担っていたのか、そういうことも認識しておく必要性がある。保健婦の活動が公衆衛生看護に依拠した考え方だけだというものではないことをここに記しておく。

 

(4)保健婦の視点から見た地域

 では保健婦は地域生活についてどのような視点で見て、どのようにして改善をしていったのであろうか。保健婦の役割から言えば、それこそ地域に保健衛生を根付かせることが第一となるわけであるが、先に述べたようにそれをするためには地域生活の機微について調査し、生活の改善の必要性があればそれを改善させ、向上させることで、結果として保健衛生を地域根付かせることが重要となってくる。保健婦は、地域という枠組みということを念頭に置きながらも、各家庭について詳細な調査を行っている。後述する「保健婦の手記」に出てくるのはそうした各家庭の一コマが多い。地域全体を俯瞰することも確かに重要なことではあったのだろうが、保健婦にとってそうした俯瞰するに当たり一軒一軒の家庭がどのような背景のもとにあり、どういう位置づけにあるのかということを主眼にする必要性があった。特に事業の中でも家庭訪問はその意味では、個別事象的だったといえよう。

 そして、保健婦にとって地域とはそうした個別事象の集りであり、統計的に見た場合、この地域ではどのような対応策が必要なのかを垣間見る視点であると位置づける。保健婦にとって個別事象がまずあって、その上に全体性を見たわせる視点があるといってよい。現実的に保健婦が見ていたのはそうした個別事象の積み重ねであったのだろう。

 当然のことながら、そうした各家庭をバックにしてまた地域を見ていくに当たり、その地域の民俗に触れる場面は多くある。それこそ、生活の基礎的な部分から、非日常的な部分に至るまで、すべての生活に保健婦は関わることになる。保健婦という立場は、医療従事者の中でも地域という場に依拠することが多い。長期的に生活を見ている場合が多い。そうした場合、民俗との接点は自然と多くなってくる。こうなった時に、やはり民俗との摩擦があることは必須である。また逆に、民俗を利用することも中にはある。地域の民俗の考え方をいくら頭ごなしに否定してもそれは、単なる摩擦に終わる。それであれば、地域生活の向上は図れない。そこで保健婦は、地域生活における民俗を利用し、人心掌握ではないが、そうした意味で地域生活に融和していこうとする。この繰り返しが保健婦が地域の視点を維持できた理由である。

 

 

3.「保健婦の手記」を読む

(1)「保健婦の手記」とは

①保健婦の記録の特性

 簡単に説明すれば、保健婦の日常業務における記録をもとに描いた経験談である。保健婦の日常業務である家庭訪問においては、様々な情報が集まる。それは何も母子のこと病者のことだけではない、それを取り囲む過程全体のこともその家庭訪問の記録には記されていく。代表的なものとして吉田喜久代氏の『砂丘の陰に』という戦前に記された日報がある。当時の保健婦は「訪問婦」と呼ばれ社会事業的な性格が強いものであり、病者のそれとは違うが、日々の家庭訪問の度にその家の状況を事細かに記録し、上司に報告するような形をとっている。これが戦後においてもそうであったかということはないにしても、家庭状況を把握すること母子や病者、生活弱者がとりまく生活の実態について記録し、それを把握しながら仕事にあたるのであるから、当然のことながら記録類には、日常生活の機微が伝わるものがある。また、たびたび訪問することによってそれが積み重ねられ、その一家の家庭事情から経済事情などのことを知る手掛かりにもなる。

 

②「保健婦の手記」とは

 そうした中での「保健婦の手記」というのは、それらの家庭訪問を続けていく中で保健婦自身が、そこで暮らす農民たちの暮らしに対する疑問点を自己の体験から見つめなおすような性格を有している。「保健婦の手記」を通じてみることができるのは、地域生活における医療の重要性もさながら、日常生活における農民たちの苦労話など、雑談に類するようなものまで含まれ、そこから保健婦は「なぜこの地域には病気が多いのか」「貧しい暮らしが営まれているのか」と常に疑問として持っていた。いわゆる生活疑問というものである。そうしたせいか疑問を通じて得られるのは、農村生活の向上にどのような糸口があるのかを保健婦自身が考えることもそうであるが、これを手記にしるし、雑誌等で発表することによって、内外に生活疑問をアピールする狙いがある。また、「保健婦の手記」は同僚であるほかの保健婦の目にもつくことから、活動の共有化、自己反省につながる一つの教育的な性格を有している。

 

③「保健婦の手記」の性格

(ア)「保健婦の手記」の共通性

 ところでここで、一応「保健婦の手記」についての概念規定を記しておきたい。というのも、この記録は様々な雑誌等で掲載がされ、その雑誌ごとに性格が異なる。内容もその雑誌の属性に迫ったものが多く、一口に「保健婦の手記」といっても様々なものがある。ただ、共通して言えることは、この保健婦の経験は、次世代の保健婦や同僚に対してむけられていること。また雑誌の書き方にもよるのであるが、保健婦が農山漁村の生活記録を公開することによって、農山漁村の内在化する問題を、読者である民衆に気付かせる狙いを含めてあることがいえる。言い換えれば、「保健婦の手記」と一般的に言われるものの多くが、開示されることによって情報の共有化、問題の顕在化を促すことが主であるということである。

 

(イ)「保健婦の手記」の属性

 この手記の属性が三つ挙げられる。第一に先に記したように当時における生活の克明な描写があること。生活に根差した活動を行っていた保健婦ならではのものであり、またエピソード的ではあるものの、その背景にある生活環境や社会状況についても言及がある点。

第二点に、これが掲載される雑誌の傾向である。主な雑誌として『保健婦雑誌』『公衆衛生』等の専門誌に加え『生活教育』という多分に社会教育的な影響を受けた雑誌にさえも、多くの手記が寄せられている。また生活教育の会(後に保健同人会となる)が発行している『生活教育』に至っては、手記の選考会評議会が行われ、入選者が雑誌への掲載を許されている。つまり、膨大な量の文章が選考会に投稿されて、有識者、例えば丸岡秀子、石垣純二、国分一太郎、金子光などが評価を下している。優秀作品を意図的に恣意的に選んでいる。文学作品的な評価も高く、単に職業的な評価というだけでなく、社会教育的な様相を呈している。

第三に他にも保健婦系の雑誌ではないが岩手県国民健康保険団体連合会が発行している『岩手の保健』には、保健婦だけでなく保健事業に関わった国保関係者や看護婦、栄養士など様々な方面からの記述があり、これが保健婦という職掌にとらわれない幅広い属性を有していることをここに明記しておく。

 

(2)『生活教育』と「保健婦の手記」

 「保健婦の手記」は多様な雑誌や著書として出回っている。それらそれぞれに雑誌の意図や著作の意図があり、その一貫性を図ることはできない。先に示した性格は大きな意味において言えることであって、すべてこれに当てはまるものがあるかというと微妙なところがある。雑誌『公衆衛生』や『保健婦雑誌』というようなものであれば、それこそ保健婦の実情を描いた手記が出ているが、どこかそれは保健婦個人の感じてきたことというよりも、事業方針における保健婦の報告的な書き方でしかない。言い方を変えるならば事務的に処理された事業という中でじゃあどうやって現場の保健婦は動いているのかを、事業内部で明らかにしているに過ぎない。実のところ、『公衆衛生』にしろ『保健婦雑誌』にしろ、まず事業があって、その枠内で保健婦がいるということであり、保健婦は事業の一つのコマに過ぎない。人間的というよりも機械的にその報告が手記という形で処理されているに過ぎない。ところが、『生活教育』という雑誌はその傾向からは全く異質なものがある。

 『生活教育』は昭和32年、生活教育の会の丸岡秀子、国分太一郎、金子光らの手によって編集された雑誌である。顔ぶれを見てわかる通り、この雑誌の意図するところは、社会教育的な側面が大きい。特に生活綴方運動、生活記録運動の流れをくむ人々がこぞってその編者となっている時点で、単なる保健婦の雑誌というものではない。その記述方針も、これまで論じていた『公衆衛生』などと違って事業内部の保健婦という位置づけから、地域の人びとにふれあう保健婦という位置づけになっている。確かに事業的内容も含まれてはいるものの、どちらかというと保健婦の実態を、保健婦の心情から持って論じているところがこの雑誌の特徴的なものといってよい。基本的に、この雑誌は投稿形式で成り立っており、投稿者である保健婦が生活教育の会宛に手記を送り、その手記を生活教育の会内部で選考し、入選作品が『生活教育』に掲載される。掲載の基準は、『公衆衛生』や『保健婦雑誌』がより報告的な内容を求めるのとは異なり、現場の保健婦がぶつかった壁であったり感じたこと、それこそ喜怒哀楽すべてにわたってどう感じ取っていたのかとイことを文章化し、その文章内容の在り方で決まっている。決して報告的な内容でとどまっているわけではない。

 「保健婦の手記」は数多く出版、形成されているものではあるが、『生活教育』に描かれる保健婦は、現場において何があってどう対応し、そしてそこにどんな気持ちを含めながら行ったのかという保健婦の人間性を追求している。本発表の初めにでもふれたが、本研究が目指すところは、より具体的な生活であり人間の動態的なものとしてのそれである。つまり人間の心情ひとつもそれに含まれる。心情がどうあったのかそれによってどう人は変化を拒み、また受け入れたのかというところが知りたい。『生活教育』における「保健婦の手記」はそうした意味において、資料的にも価値があり分析することによって、保健婦と地域住民との関係性を知ることが出来る。また保健婦が事業を展開するにあたっての保健婦と地域住民の摩擦や融和を見ることがかなうのではないだろうか。

 

4.「保健婦の手記」に描かれる民俗

(1)保健婦が見た民俗

 保健婦と「保健婦の手記」の概要を見てきたように、保健婦と地域住民、そしてそこに息づく生活との接合点はかなり密接であることが言えると思う。ここでは、より具体的にその保健婦の活動を「保健婦の手記」から取り上げて論じていきたいと思う。勿論、用いる資料は『生活教育』の「保健婦の手記」を中心に述べていきたいが、その背景にも着目したいため若干別視点からの資料も検討材料として押さえておきたい。それは、農家によって描かれた手記の類であったり、『岩手の保健』に描かれた農村の声であったり、新評論社から昭和30年代に出ている農村新書シリーズに描かれる農村の手記を取り上げたものなどさまざまであるが、これらは保健婦がぶつかった壁をより鮮明に、どうしてそういう壁が存在しうるのかを検討するものである。

 保健婦にとっての壁とはまさに、地域における既存の民俗であったりする。これを近代医学と民俗の対立ととらえる人もいるだろうが、実のところこの対立的なものはもっと別の方向から言えると思う。地域に入って保健衛生を普及させ、健康的な生活を作っていこうとする思いは、保健婦だけが持っていたわけではない。地域住民もまたそれを持っていたと考えていい。『岩手の保健』で乳幼児が次々に死んでいく中で、泣く泣く子どもの亡骸を抱き寄せる母の姿からすれば、子どもを死なせることはそれこそ辛いものであるし、病気にかかっても病院へやれないという思い、つまるところの病院へ行かせてやりたいし行きたいと思っている気持には変わりがないのだ。だから、単に近代的な保健衛生と民俗的な習俗が歯車として対立しあうものであったかというと全く異なる。どちらかといえば、近代的な保健衛生を手に入れて健康を向上させてやりたい。そういう気持ちがあってしかるべきなのである。だから、ここでいう民俗という壁というのは、地域住民が「超えたいけれど越えられない壁」としてのアイデンティティーの産物といってもよい。伝統的生活を固辞しようとするのではなくて、伝統的生活から抜け出せない自分たちがなぜいるのかを誰かに気づかせてもらうことを求めているきらいがある。保健婦は彼らの声を聴き、彼らの想いを組みながら、民俗の壁をより低くしてやることが必要とされるのである。先に断わっておくが、保健婦は因習を打破しようとしているのではない。因習にがんじがらめになっている地域住民のよき理解者となり、その上で保健衛生をより具体的なものとしてとらえ、そこから住民の自主性を育て上げることが重要なのである。

 だから、保健婦にとっての壁は、そうした積極的な民俗への介入ではあるものの、これは言い換えれば住民自身が積極的に民俗をどうとらえなおすかを問うているように思う。

 

(2)戦後の近代化における伝統の保持と諸問題

(3)保健婦のアプローチ

(4)民俗生活の摩擦と融和

…嫁姑問題、女性の地位、世間体、共同体としての封建制。医療とは違った形での保健婦活動という視点に主眼を置いてみたい。

 

まとめ

(1)「保健婦の手記」から見えてくるもの

 保健婦の活動を「保健婦の手記」からみていくと、そこには保健婦事業では映しきれない、様々な難題があることが理解できる。そうした難題のなかに民俗の存在もある。出産の問題、嫁姑の問題などなど多岐にわたる問題がそこにある。これを封建遺制としてしまうのは簡単だが、実際地域の人々は健康問題をどうにかしたいと願いながらも、それに抗おうとしながら、あきらめていたように感じる。封建遺制という遺制としての在り方よりも、生活の習慣化によって慣らされた諦観があったと考えてよい。そうした中において、保健婦はこの諦観をどうにかするべく、力を注いでいった。民俗を変えるという大きな偉業よりも、民俗を支える人々の意識において働きかけたと言ってみてよい。

 これまでの民俗学における近代医療の在り方や近代化という問題について、どこかしら民俗との対立的なもの、伝統を壊すようなものとしてとらえられてきたが、実のところ、伝統に対して疑問を持っていたのは保健婦をはじめとする医療従事者という有識者だけではない。ちいき住民そのものが伝統というものに対して、疑問を含みながら生活をしていた。ただ諦観して生活の習慣化、規則化が壊されることを恐れていたのかもしれない。だが、変えようとした事実はあり、それに保健婦は関わろうとしたということが「保健婦の手記」からは見えてくる。

 

(2)保健婦と生活者の接合点

 

(3)民俗学における「保健婦の手記」研究の可能性【2】

…保健婦の手記には多分に生活者の実態と、民俗生活における時代的齟齬を内包している。そうした民俗生活を変えていくうえで保健婦が果たした役割は大きい。生活者に近い存在だからこそ、わかる部分が多い。こうした保健婦の手記、保健婦の証言が示す民俗の在り方というものを民俗学的に分析するためにどうすればいいかを考察する。